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軽石層の分布と給源火山

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 高根沢町および周辺市町村に分布している関東ローム層の中には、数枚の軽石層が挾まれており、それぞれに七本桜軽石層とか鹿沼軽石層とか名付けられている。そしてさらにその軽石層がどの火山の噴火によって供給されたものであるかが2表に示されている。では、これらの軽石層の給源火山がどのようにして決められたのか、18図「軽石層の分布図」の鹿沼軽石層を例にとり考えてみたい。
 一般に地層というものは水平方向に限り無く続いていると思われがちであるが、決してそうではなく、広い・狭いの違いはあるがその広がり(分布)には限りがある。
 「鹿沼軽石層」の分布をみてみると、その北限は今市、喜連川、小川を結ぶ線で示され、また南限は群馬県大間々、栃木県の足利、佐野、間々田、さらに茨城県鉾田を結ぶ線で示される。つまり鹿沼軽石層はこの二本の線の内側にのみ分布している。
 次に鹿沼軽石層の厚さの変化を調べてみると、分布の中心線を鹿沼、宇都宮、芳賀、茂木と東の方向にいくほど薄くなり、また、分布の中心線から北限、南限の方向に調べてみてもその厚さが薄くなっている。
 さらに軽石の粒の大きさ(直径)を調べてみると、地層の厚さの変化と同じく東へ行くほど小さくなり、西へ行くほど大きくなる。赤城山の麓では何と鹿沼土の一粒の大きさが数一〇センチにもなっている。
 また、鹿沼軽石層の分布の東限は茨城県の沖合いで海底ボーリングをしたときに、顕微鏡で見るような小さな粒の鹿沼軽石層が確認されていることから、はるか太平洋の沖まで分布しているものと推定される。一方、西限の調査では赤城山の西斜面に僅かに観察される程度で、麓および西側では見られない。
 このような事実の累積から、鹿沼軽石層は赤城山の爆発によって空中に放出され、強い西風(偏西風)に乗って赤城山の東側に運ばれて地上に降下したものと考えられる。そして大粒で重いものは近くに落ちて堆積し、小さくて軽いものは遠くまで運ばれたのである事がわかる。
 ではこの軽石層が、なぜ赤城軽石層でなく鹿沼軽石層と呼ばれているのだろうか。
 一般に地層の名前は、その地層の分布の中心の地名(例、境林礫層、館の川凝灰岩層)とか、良く観察できる所の地名(七本桜軽石層―今市市)などが付けられることが多い。
 鹿沼軽石層の揚合は、鹿沼市周辺の崖で良く観察することができ、しかも園芸用に便利な粒の大きさであることや、採集量が多いことなどからその地名が付けられたものである。その他の軽石層についても同様な調査研究が行われて、地層名や給源火山が決定されているのである。
 

18図 軽石層分布図(阿久津純 1960)