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〔湖底の時代〕

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 土台となる塩谷層群を堆積して第三紀の時代は終わりを告げるが、その末期頃からこの地域はしだいに隆起して陸地となり、浸食を受けながら第四紀洪積世の新しい時代を迎えようとしていた。ちょうどその頃、那須火山の初期の活動が始まって県北地方に溶岩流を流出した。同時に「関谷構造線」続いて「塩谷構造線」と呼ばれる大規模な断層線の第一次活動が起こり、中央低地帯が陥没して鬼怒川地溝帯を形成し、この地域はまたも水底に没した。この二つの構造線の活動はその後も継続して地溝帯の沈降が続き、県南から県北にかけて一大水域がつくられた。
 「関谷構造線」は那須火山の爆発や那須野が原の形成に深く関係する断層である。
 「塩谷構造線」は、関谷構造線に続く形で矢板市の塩田から始まり、幸岡・館の川・山苗代・大槻を経て高根沢町大字宝積寺の石神の東側に達しているが、その南への延長については地下に没し不明である。
 この地域の土台となっている塩谷層群は、この塩谷構造線を境に、西側では地上に、あるいは浅い地下にあるのに対し、東側では地下深く潜っている。
 19図は「東北新幹線工事に伴うボーリングによる地質調査」(国鉄・昭和四七年)の資料と、「鬼怒川流域地区電気探査による水源調査」(首都圏整備委員会・昭和四六~四七年)の資料とを参考にして推定作成した基盤深度図である。これによると高根沢町や隣接地域の土台となっている塩谷層群の深さは、氏家町の箱森新田では地下九〇メートル、桜野では九〇メートル、高根沢町の大谷天沼では六〇メートル、中阿久津では八〇メートル、花岡で七〇メートル、太田では一六〇メートル、元気あっぷむらでは一四五メートル、宇都宮市の清原では一五〇メートル以上の深さとなっている。さらに周辺の地域での調査資料を併せ考えると、矢板→氏家→高根沢→清原東方→真岡、さらには関東平野中央部にいたる地域は深い谷を形成していると考えられる。これは塩谷構造線の東側が落磐した断層活動を契機としてこの地域が沈降すると同時に、川底が浸食で削られてつくられた深い谷と考えられる。
 一方、高根沢町の東隣りの南那須町大金付近ではこの塩谷層群の地層が地表に露出していることから、白河→黒羽→佐久山→喜連川→真岡を結ぶ線にもう一本の断層線(西側が落磐の)が予想される。この二つの断層線に挟まれたこの地域は深い船底状の谷になっているものと考えられ、これを「鬼怒川地溝帯」と呼んでいる。
 

19図 基盤となる塩谷層群上面の深さ(土屋佳雄 1983)

 この地溝帯につくられた湖水域には多くの物質が堆積した。県南部の水域には海水が流れ込んで海成層が厚く堆積したのに対し、中央部以北の湖水域には礫層を主堆積物として砂層や凝灰岩ないし凝灰質泥層などが厚く堆積した。特に地溝帯の中心部では二〇〇メートル以上の厚さで、元気あっぷむら付近では一一〇メートル以上の厚さで堆積している。この地層は「境林礫層」と呼ばれ、この地層から発見される化石の多くは植物化石で、しかも淡水性の植物やケイソウの化石が非常に多いことなどから、この水域は古い東京湾に続く湖と判断することができる。
 またこの水域の岸に近い矢板市西部の矢板市立西小学校の校庭からはナウマン象の歯の化石が発見されている。
 この堆積活動の末期には高原火山の大爆発が何度かくり返され、小石混じりの火山灰を大量に吹き飛ばして湖の北半分を覆った。
 

20図 川崎層群の分布地域(『栃木県史』通史編Ⅰより)

 この火山灰層は矢板市の館の川では約三〇メートルの厚さに堆積し、大きな軽石なども含まれていて火山爆発の規模の大きさが想像される。この火山灰層は「館の川凝灰岩層」と呼ばれ、前出の「境林礫層」と合わせて「川崎層群」と命名されている(2表)。
 この頃塩原では、この一連の火山活動による溶岩流の流出により川がせき止められて湖ができ、ブナ、イヌブナ、オノオレカンバ、ハウチワカエデ、クリ、コナラなどの木の葉の化石、小動物や昆虫の化石を含む泥岩層の堆積が行われていた。発見された木の葉化石の種類を調べると、当時の気温は今より数度低く、現在の日光の中禅寺湖周辺の気候に似ていたものと考えられ、氷河期の寒冷な気候の影響を受けていたことが推定される。