石器時代人の住居といえば、洞穴や岩陰などのイメージが強いが、実際には台地などの平坦面の開地性の集落が一般的である。地面を掘りくぼめて上屋を建てた竪穴住居跡や炉跡、貯蔵穴、墓などが発掘され、狩猟採集の生活に一般的とされる<漂泊>ではなく、定住性の高いことが分ってきた。しかし、この時代の集落跡から居住遺構がみつかることは少く、実態はなかなか見えてこない。遺跡を発掘した場合、石器や石屑、礫、炭化物などが数メートルの範囲に集中している箇所がある。この生活痕跡を一つの単位=ユニットとみて小集団(一世帯)が作業をしたり生活の残滓を散乱させた居住地点に当て、簡単な小屋がけ施設を想定している。群馬県・下触牛伏遺跡は、ユニットが直径約五〇メートルの環状に配列し、石器の接合関係から集落での世帯構成が具体像として描かれている。前述の佐野市・上林遺跡では、台地の突端に長径八〇メートル・短径五〇メートルの環状にユニットが分布することが確認された。
このようなユニットの環状分布は、縄文時代の定形集落の形態にも通じるもので、長期的なサイクルに基づく生業が成立していたことを想像させる。塩谷町・鳥羽新田箒根神社遺跡は、高原山黒曜石の破片が多量に出土し、その接合状況から原石の加工址とする見方が有力である。遺跡の規模や遺構、遺物の在り方の違いは、その集落の機能や性格の特徴を反映している。社会生活における集団行為の分化が起きていたことを示すともいえよう。
9図 下触牛伏遺跡・ユニット分布図(「岩宿時代」岩宿文化資料館)