8図 イネ科のプラントオパール
縄文時代の幕開けは、土器と弓矢の出現に代表されるが、その終りについては一般的に水稲耕作の伝播する弥生時代の開始(紀元前三〇〇年頃)をもって迎えると考えられていた。しかし、近年の発掘調査により、その事情は大きく変わりつつある。
一九七九年、福岡県板付遺跡でこれまで考えられてきた弥生時代の始まりより一段階古い縄文晩期末の時期の水田が検出された。その後、北九州をはじめとする西日本からこの時期の水田が十数例発見されるに至り、縄文時代の水田として理解するよりは、井堰や水路、農具などの弥生時代の諸要素がすでに存在していることから、水稲耕作の開始を百年ほどさかのぼらせ、この時期を「弥生早期」として理解する意見が提出されるようになった。
一方、青森県八戸市風張遺跡では縄文後期後半の竪穴住居跡から炭化米が発見され、放射性炭素年代測定法でも、この年代であることが明らかとなった。また、土壌や土器の胎土中に存在するプラント・オパール(植物珪酸体の化石)を分析する方法が開発され、岡山県南溝手遺跡や福田貝塚では縄文後期前半、さらに同県姫笹原遺跡では縄文中期の土器の胎土中からイチョウの葉の形をしたイネ独特のプラント・オパール(7図)が検出されるなど西日本での発見例が増加している。中国の揚子江下流の河姆渡遺跡では七,〇〇〇年ほど前にすでに稲作が行われており、縄文時代前期に福井県鳥浜貝塚でヒョウタン・リョクトウなどの大陸系の栽培植物が発見されていることなどを考えると、イネの伝播はさらに古くなる可能性もある。しかし、これらについては、稲作の諸要素が欠落しており、恒常的に稲作を行っていたかどうかはまだ多くの検討を要する。クリやドングリなどの木の実やシカやイノシシなどの自然の恵みが豊かであった縄文時代中・後期は、イネは知っていたものの、食するまでには多くの過程を経なければならない稲作を、まだ受け入れる必要はなかったのかもしれない。なお、東北地方の北端、青森県三内丸山遺跡では前期の円筒土器から多量のイヌビエのプラントオパールが検出されたことで、クリなどの木の実と共にイヌビエの栽培が三内丸山遺跡の縄文人の人口を支えていた可能性があることが指摘されている。
栃木県の場合、縄文晩期末から弥生初頭の発掘調査例が少なく、稲作の開始については依然明確ではない。那須町上田遺跡、上河内町古宿遺跡、宇都宮市野沢北遺跡などで採集された籾圧痕の認められる条痕文土器の破片が、現段階では本県のイネの伝来を考える最も古い資料であろう。古宿遺跡ではこれまでの発掘調査で、条痕文土器の段階と思われる土器は、ほかに晩期後葉の中部地方の氷1式(長野県小諸市氷遺跡出土の土器を標識とし、これまで県内では出土例がなかった)が1点出土しているのみである。この段階については山梨県中道遺跡や千葉県荒海貝塚など、関東近県でもイネ科のプラントオパールが検出されており、栃木県でも土器の器種組成や石器の組成、遺跡の継続・立地などに大きな変化のみられる時期でもある。
本県も近県とほぼ同じ晩期後葉の段階にイネの伝播があった可能性はあるものの、稲作が普及していたかどうかについては、まだ稲作の諸要素に乏しく、今後の発掘調査の成果を待たねばならない。
9図 古宿遺跡の氷1式土器と籾圧痕土器