漁撈というと主に海浜のムラに発達したと考えられがちであるが、海のない本県でも河川漁が発達していたようである。それは、土器片や偏平な礫に切り込みを入れた網の錘が出土していることから明らかで、投網や小型の刺し網などの網漁が存在していたと思われる。当然、釣り漁やヤスによる刺し漁もあったであろうが、これについては、県内では遺存例が少なく、わずかに前期の藤岡町篠山貝塚で釣り針とヤスが出土しているのみである。このほか、軽石を加工し、紐掛け溝や孔をあけたものが出土しているが、浮子として使用されたものと考えられている。
網漁は中期中頃になって、まず東関東の霞ヶ浦周辺を中心に発達する。この地域の魚網錘は土器の破片に糸掛けのための切り込みを入れたものが多い。県内では若干遅れて中期後半頃から後晩期に活発になるようで、河口に比べ流れが急なことや川底が砂礫であることなどから石錘が主に使われ、河口付近のものに較べ重量がやや重いという傾向が指摘されている(上野修一 一九八八)。もちろん、土錘も出土しているが、これらは流れの緩やかな河川や湖沼などで使われたものと思われる。
町内でも魚網錘は後期から晩期の数遺跡から出土している。西根遺跡では偏平な河原石の長軸二か所に切り目をつけたもの、東谷津遺跡からは河原石の長軸に溝が一周する魚網錘が各一点採集されている。また、一九六〇年に発掘調査が行われた向原遺跡では、河原石の両端を打ち欠いたものや十字の溝を施した石錘や土錘が数点出土している。どのような魚を網漁の対象としていたかは、本県では魚骨の遺存例がなく想像の域を出ないが、アユ・ウグイ・オイカワ・コイ・フナ・ウナギなどであったと考えられる。
このほか、岩手県萪内遺跡では縄文時代後期の囲い込み漁の魞が発見されているのをはじめ、現在、弥生時代までしかさかのぼれないが、筌や梁による漁も縄文時代にすでに存在していたであろう。
ところで、塩作りも関東地方では後期末から晩期に発達する。海水を土器に注ぎ込み、煮詰めることによってできた白い結晶は、調味料や魚などの保存等に用いられた貴重品であったろう。県内のムラにどのように塩がもたらされていたかは定かでないが、製塩土器が海辺から数十キロ離れた遺跡で出土していることや、当時の文化圏・情報網などを考えると、塩や塩漬けにした魚が山の幸や石材と交換されていたことは十分予想される。
12図 復元された投網と町内出土の石錘
1.西根 2.東谷津