中期前半は東関東に分布の中心をもつ阿玉台式土器が多く出土する。胎土には金雲母を含み、波状および平らな口縁の深鉢形土器と浅鉢形土器がある。古い段階のものは断面三角形の隆帯と角押文・押し引きの有節沈線などで文様が施される(3)。細い竹管を使ってつけた文様で、口縁部には扇状把手などが付く。新しい段階は隆帯も丸みをおび、それに沿って幅の広い角押文や爪形文が施される(4)。また、口縁部と胴部文様帯の間には無文帯が設けられ、口縁部の把手は山形把手が主体となる。最終段階には角押文や爪形文は沈線文に変わり、地文に縄文や条線文が施されるようになる(5)。石神遺跡や上の原遺跡では阿玉台式の前半段階には東北南部のが大木7b式土器が、後半段階には隆線で表したS字文や装飾把手をつけた大木8a式土器が共存している。また、数は少ないが西関東の勝坂式土器もみられる。
中期後半は加曽利E式土器が関東地方に広く分布する。前段階の阿玉台式とこの段階を繋ぐ時期の土器が上の原遺跡の12号土坑から出土した一括資料である(30図)。東関東を中心に分布する楕円形区画文や交互刺突が特徴の中峠式をはじめ、阿玉台式の系譜を引くもの、複弧文の施された大木8a式の仲間や、北陸の火炎系の土器も出土しており、活発な交流ぶりがよくわかる。
加曽利E式土器は均整のとれたキャリパー状の深鉢形土器をはじめ、浅鉢・有孔鍔付土器・器台・両耳壼などがあり、4型式に細分されている。深鉢を中心にその変遷をみてみると、加曽利E1式は口縁部に隆帯で渦巻文・クランク文・波状文などの文様が展開する(6)。胴部は縄文を地文とし隆帯や沈線で懸垂文が施されるものも出現する。つぎの加曽利E2式は、口縁部には隆帯と沈線による渦巻文と楕円形区画文が展開し、胴部の懸垂文は磨消帯となる(7)。上の原遺跡ではこの時期まで甕形で胴部に大形渦巻文が発達した大木8b式が共存している。
加曽利E3式土器になると、深鉢形土器の胴部の括れは弱くなり、渦巻文や楕円区画文は退化して平板化する(8)。胴部の懸垂文は磨消し部の幅が広くなったり、上端が連結して閉じるものもある。また、口縁部文様帯がなくなり、胴部にだけ縦位の楕円文やH状の磨消縄文帯が展開するもの、隆帯で大柄な渦巻文が展開するものなども出現する。中期終末段階の加曽利E4式になると、口縁部には微隆起線で区分された幅の狭い無文帯が廻らされる。胴部には微隆起帯や細い沈線で区画されたHやY字状の磨消縄文帯が展開する(9)。県央では加曽利E式後半には、中期中頃まで顕著だった東北系の土器はほとんど見られなくなる。
20図 中期の土器
1・2.那須町木下 3.芳賀町免の内台 4.小川町三輪仲町 5・8.宇都宮市御成田 6.氏家町ハットヤ 7・9.西那須野町槻沢