今回の町史編さんの事業で知りえた縄文土器では実測図のとれる数少ない資料であり、さっそく実測図と展開図をとった。最も残りの良い部分の突起を中心として図を描いた実測図では判らないが、展開図をみると同じ文様が三個展開するはずなのに、出来上がった図面には、後ろの胴部文様の弧状沈線が一本のものがあった。実測した人の書き忘れかと思い、沈線を書きたそうと土器を観察すると、土器には沈線がなく、この土器の製作者である今から三,八〇〇年ほど前の縄文人の書き忘れであったことが分った。
縄文土器の多くは口縁部・頸部・胴部と文様を画し、それぞれの文様帯には流れるような優美な文様や幾何学的な文様などの同じ文様が何回か繰り返し描かれるものが多い。そして縄文土器の研究者は、土器の形、文様や技法の小さな変化も見逃さず緻密な研究を積み重ね、世界的にみても類稀な精緻な土器の編年を完成させた。これらの細かな文様を忠実に描く縄文人は、さぞや几帳面で気難しい人が多かったであろうと想像してしまう。しかし、縄文土器をよく観察すると、縄文人が土器に何回か同じ文様を割りつけ描いていくうちに、文様の一部を描き忘れたり、割りつけの失敗に気づいても、最初から文様を描きなおすことなく「まあいいか」、と似たような文様でごまかした土器も少なくない。このような土器を見るにつけ、縄文人の中にも、細かなところを気にしない、おおらかな一面をかいま見たような気がする。
22図 線を描き忘れた土器(上・卵塔山遺跡)と文様の割り付けに失敗した土器(下・茂木町塙平遺跡)