縄文社会の成立・発展には、それまでの旧石器時代にみられたような自然の恵みを求めて移動を繰り返す生活から、一定の場所に住居をつくって生活する定住が大きな要因としてあげられる。
この定住生活を可能にしたものは、気候の温暖化による食料供給の安定であり、土器の普及による食生活の多様化であったと考えられる。また、食料の乏しい時期を乗り切るために、獲得できる時に多くの食料を獲得して貯蔵・保存を行っておくことも重要なことであった。
しかし、草創期から早期にかけては、本県では遺跡の発見例が少なく、縄文人の生活に関しては不明な点が多い。草創期は、宇都宮市大谷寺洞穴遺跡のようにある程度の空間があって前面にテラスのある自然の洞窟や、不整形のすり鉢状の浅い掘り込み程度の粗末な竪穴住居跡で雨露を凌いで生活をしていたらしい。食料獲得もまだ不安定であったことから、臨時的なキャンプを張りながら食料を求めて移動生活していた可能性が高い。早期前半の撚糸文系土器群の時期についても、宇都宮清陵高校遺跡や小山市間々田六本木遺跡・市貝町堀込遺跡などで竪穴住居跡が一~数軒検出されている程度で、ムラとしてはまだ未発達であり、家族ないしは少数の集団か共同生活を営む程度のものであったと考えられる。しかし、草創期とは異なり、この時期は石皿や磨石の出土が多く、植物食料を安定的に獲得していたものと考えられ、南関東では貝塚が作られるなど縄文時代の生産様式がある程度確立してきたと思われる。
本県では現在のところ、定住生活が明確になるのは、ムラの様相が明らかになってくる前期になってからであり、さらに環状に居住域が配置される大規模な拠点的集落が発達するのは、中期になってからである。