縄文時代のムラには大別して、数一〇軒~一〇〇軒以上の竪穴住居跡が発見される大規模なムラと、数軒の竪穴住居跡ないしは土器や石器しか発見されない小規模なムラとがある。
大規模なムラは本県では中期に最も発達し、町内の上の原遺跡をはじめ、南那須町曲畑遺跡、西那須野町槻沢遺跡、宇都宮市御城田遺跡、小山市寺野東遺跡などが発掘調査によりムラの構成が明らかにされている。これらは、中央に広場的空間を設け、隣接して袋状土坑を含む土坑群からなる貯蔵域、外側に竪穴住居跡などの居住域を設定する環状や馬蹄形に展開するムラが多い。しかし、これらは数一〇〇年間継続して営まれたムラであり、一〇〇軒以上の竪穴住居跡が確認されたとしても同時期に存在した住居は、重複関係や出土土器の比較から数軒から多くても一〇軒程度であったと考えられる。ムラが当初から環状を意識していたかは、初期の段階には住居跡が少ないものが多く明らかでないが、居住域や貯蔵域・墓域などの配置については無秩序ではなく、ある規制のもとに計画的に行われていたようである。それは、ムラの継続する全時期の遺構を重ね合わせると環状がより鮮明となることからも十分に予想される。このような数時期にわたって継続的に営まれたムラは、その地域の交易や祭祀・集団労働などの拠点的な機能をもつムラであったと考えられる。
このような環状の形態をとる集落は、本県でも前期にはすでに出現しており、宇都宮市根古谷台遺跡で確認されている。中央の墓壙群を取り囲むように竪穴住居跡、長方形大形建物跡が配されていることから、一般的なムラというよりは、葬儀や祭祀などのセンター的な遺跡と考えられている。
一方、数軒の住居から成り、短期間しか営まれなかった小さなムラも少なくない。壬生町御新田遺跡はこのようなムラの典型であり、広範囲にわたって調査されたにもかかわらず、中期中頃の遺構は六〇×四〇メートルの範囲に竪穴住居跡二軒、土坑九基、集石遺構二カ所が発見され、やや離れて小形の短頸壺が一個埋設されていたのみであった。また、古墳~平安時代の遺跡として知られている砂部遺跡ように、住居も検出されず少量の縄文土器や石器だけしか出土しない遺跡も、発掘調査によりたくさん確認されている。縄文時代のムラと言うと、大規模な環状集落が代表的形態として考えられがちであるが、実際はこのような小さなムラが数的には圧倒的に多く、普遍的な存在であったようである。町内でも所在調査により八〇ヵ所ほどの縄文遺跡が確認されているが、その八~九割がこのような小さなムラと考えられる。
このように、縄文時代の地域社会は、小規模なムラから大規模なムラまで、いくつかの段階のムラが組み合わさって構成されていたことは明らかであり、大規模な拠点的なムラを地域の中核としながらも、一つのムラで全てを充足することなく、周辺のムラと生産と消費、さらには婚姻などの緊密な関係で結ばれ共存していたものと考えられる。
23図 南那須町曲畑遺跡発掘調査区全景
24図 壬生町御新田遺跡の遺構配置図