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石神遺跡の二段床住居

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27図 石神遺跡の二段床住居

 縄文中期の中頃、竪穴住居跡の中に、二段床のものが出現する。県内ではこれまで九遺跡一六例が発見されているが、町内からは上の原遺跡で三軒、石神遺跡で一軒確認されている。上の原遺跡のように一遺跡で数軒出土している場合でも、時期が若干異なるものが多く、一集落に一~二軒程度の存在であったようである。
 東北地方北部では秋田県杉沢台遺跡など前期の大型住居跡にも床面に段がみられるが、関東地方では茨城県南部から千葉県北部の中期前半(阿玉台Ⅰb期)に出現し、中期中頃(阿玉台Ⅲ~Ⅳ期)に栃木県・埼玉県・東京都などに分布を拡大するようで、東関東の阿玉台式土器の分布域とほぼ一致する。
 二段床の住居は同時期の住居に較べるとやや大型で、炉を付設しないものが多く、遺物の出土が少ないことから、貯蔵庫・土器乾燥場、木の実の選果場、共同作業場、集会場などの諸説が提示されているが、いずれも物的証拠は乏しい。なお、炉が付設されていないことは、阿玉台式土器の分布する地域の一般の竪穴住居跡にも少ないことから、特に問題視する必要はなかろう。
 そんな中で、一九八六年調査された石神遺跡の二段床住居はその性格を考える上でひとつの重要な発見であった。この住居跡は中期中頃の阿玉台Ⅲ・Ⅳ式の時期のもので、七・〇×六・四メートルの楕円形を呈し、主柱は四本で炉を有さない。周辺のテラスは一メートル前後の幅で、中央の床面とは四〇センチほどの段差がある。また、住居内には間仕切りの溝が、北西の住居外には出入口施設と思われる平行する二条の溝が確認されている。住居内からは、北半部に集中して磨製石斧の原石および未製品・剝片・砥石・拳大の円礫・円礫の破片・礫器・磨石・石皿・敲石・小型磨製石斧などが四三〇点も出土しており、その総重量は一二〇キロにもなる。このことから石神遺跡の二段床住居跡が磨製石斧を製作する専業の工房跡である可能性が指摘されている。なお地域は異なるが、東北北部の二段床住居でも必ずと言っていいほど石器が出土し、剝片や台石・石皿・敲石などが出土することから石器製作の場であった可能性が指摘されている(遠藤正夫 一九八九)。
 しかし、関東地方の場合、石神遺跡以外では、槻沢遺跡で軽石が床面から八個出土した住居がある程度で、石器製作工房としての可能性のある住居はない。二段床住居は、ひとつのムラで一時期に一~二軒しかなく、土器などの日常生活の道具の出土も少ないことから、石器製作の工房とは限らないまでも、共同の作業場の可能性が高いと言えよう。