ビューア該当ページ

袋状土坑の変化

185 ~ 186 / 899ページ
 袋状土坑とは、広義には開口部が狭く下方が広くなる形態の土坑を総称していう。しかしその形態はさまざまで、上方の入口が狭く円筒状の上半部と、下半部で大きく広がる三角フラスコ状のもの、入口からすぐ底に向かって大きく広がる巾着袋の形のもの、入口から底面に向かって緩やかに広がる程度のものなどがみられる。これらの形態は、時期によって少しずつ異なるようである。
 袋状土坑はすでに早期に南関東では出現しているが、本県では現在の事例では前期中頃の黒浜式期になってからで、亀梨の大用地遺跡、南那須町後久保B遺跡をはじめ七遺跡一九例が知られている(1・2)。形態は入口の直径が一メートル前後で、底径がそれよりやや広いものである。両遺跡では住居から数メートルの至近距離に構築されており、数は少ないが矢板市後中蒔遺跡のように住居内に袋状土坑が付設されている例もある。このような状況を考えると、この時期の土坑は各住居で個別に管理していた貯蔵施設であったといえよう。
 中期の袋状土坑は中頃を中心に群在する傾向があり、集落で共同管理していたものと思われる。前半の阿玉台式期にはフラスコ状を主体に壁面のえぐれの著しい袋状土坑が盛行する(3)。後半の加曽利E1~E2式期になると袋状土坑は群集する傾向があり、更新も盛んで多くの重複が認められる。小ピットをもつもの(4)もこの時期が最も多い。中期末には入口から底面に向かってわずかに壁面が傾斜する程度で円筒形に近いものが多くなり、規模も小さくなっていく。この傾向は後期前半まで見られる(5・6)。

31図 各時期の袋状土坑
1・2.南那須町後久保B(前期後半) 3・4.高根沢町上の原(中期) 5・6.西那須野町槻沢(後期前半)