海老原郁雄は上の原遺跡から検出された遺構を四期に分け、これらの遺構のあり方を分析している(海老原郁雄 一九八六)。Ⅰ期は阿玉台Ⅳ式段階で、調査区の北西に二軒の住居と周辺に八基の土坑が存在する。Ⅱ期は加曽利EⅠ式(古)段階で三軒の住居跡が検出されているのみで、土坑が調査区の外に存在するらしい、としている。Ⅲ・Ⅳ期は加曽利EⅠ(新)~EⅡ(古)段階で五〇~六〇メートル離れて位置する住居の間に多数の土坑が重複しながら存在しており、部分的な調査ではあるが貯蔵域(土坑群)を居住域(竪穴住居跡)が取り囲むように環状に配置されており、この地域の拠点的ムラであったと考えられている。
上の原遺跡のムラでは、全時期を通して住居の近縁に同じ時期の土坑が作られる傾向があり、Ⅱ期とⅢ期の間に北から南への集落の移動という大きな画期があったようである。また、各時期に二段床の竪穴住居跡が一軒づつ発見されており、海老原は袋状土坑に貯蔵する堅果類の選果場や加工場と解釈している。また、このような遺構のあり方や石器の中でも堅果類などを加工・調理する石皿や磨石などの割合が高いことから、上の原ムラの縄文人がクリやドングリなどの堅果類をはじめとする植物採集を主な生活基盤としていたことがうかがわれる。
32図 上の原遺跡の遺構分布図(海老原郁雄 1986「縄文中期・袋状土坑の一検討」『唐澤考古』6より)