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コラム 高度だった縄文文化

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 発掘調査の少なかった二〇年ほど前までは、縄文人は洞穴や地面を掘り窪めた粗末な竪穴住居に住み、毛皮の衣服をまとい、髭を伸ばし、髪を振り乱して鳥獣や魚や木の実などを採って食べていた「貧相で素朴な生活をしていた原始人」というイメージが強かった。しかし、近年の全国各地で行われている数多くの発掘調査により、これまでの縄文時代観を覆すような驚くべき新発見が相次ぎ、縄文時代のイメージの大きな転換が余儀なくされている。
 これらの代表的な発掘調査が一九七二~一九八五年の「縄文のタイムカプセル」とまで言われた福井県鳥浜貝塚の発掘調査であり、一九九二年から現在も発掘調査が続いている「縄文都市国家」・「縄文王国」(批判も多いが)などとマスコミを賑わしている青森県三内丸山遺跡である。また、本県でも小山市寺野東遺跡で発見された後期前半~晩期前半の南北一六五メートル、幅一五~三〇メートル、高さ五メートルの環状盛土遺構は「縄文時代の大土木工事」として一躍脚光を浴びた。
 これらの詳細はそれぞれの報告書や概説書に譲るが、鳥浜貝塚では縄文前期の丸木舟・櫂・丸木弓・石斧柄、漆塗りの容器類や櫛などの多くの木製品が出土し、漆技術を伴った高度な木器文化がすでに六,〇〇〇年前に存在していたことで大きな驚きを与えた。一方、三内丸山遺跡は居住域・墓域・貯蔵域・盛土・ごみ捨て場などが長期にわたり計画的に配置された縄文前期~中期(五,五〇〇~四,〇〇〇年前)の大規模な集落で、集落の北西縁には直径一メートルのクリの巨木が六本(一間×二間)、四・二メートルの間隔で建てられていた。掘立柱建物か立柱かは明らかでないが、二〇メートル前後の高さが推定でき、柱の周りは腐りにくくするため焦がしており、内転びや固め打ちといった大型の建物に用いる建築技法がすでに用いられていた。さらに、大型の竪穴住居や掘立柱建物には三五センチ単位の縄文尺とも呼べる物差しが用いられた可能性も指摘されている。
 また、最近では富山県桜町遺跡から縄文時代中期末の大型高床式建物に、「網代壁」や「貫穴」・「渡腮仕口」といった建築技法が用いられた部材が発見された。「網代壁」はこれまで古墳時代以降にしかないと考えられていたものであり、「渡腮仕口」についてはこれまで飛鳥時代に建立された世界最古の木造建築である法隆寺が最古とされていたが、その起源が一気に二,七〇〇年も前にさかのぼることが明らかになるなど、新発見はこれからもまだまだ続くものと思われる。
 しかし、世界史的に観ると七,〇〇〇年前(縄文前期)には中国で稲作が始まっており、五,〇〇〇年前(縄文中期初頭)にはシュメール文明やエジプト王国が統一されている。また、エジプトのギザのピラミッドが四,六〇〇年前(縄文中期)、イギリスのストーンヘンジが三,五〇〇年前(縄文後期)には建造されたことを考えると、縄文時代に都市国家や王国と呼べるものがあったかどうかは別として、今日の発掘調査の新事実から世界各地の文明に劣らない高度な文化が存在したとしても不思議はなかろう。縄文時代が土と石と木の文化で、建築物が木造のためほとんど残ってはいないが、巨大な構築物や高度な建築技術の痕跡が東北や北陸地方で近年発見が相次ぎ、日本の縄文時代だけが原始時代というイメージは一掃されよう。

33図 桜町遺跡の大型高床建物(富山県小矢部市教育委員会1998「桜町遺跡~縄文の森に吹く風を感じて~」より)