文化圏とは、知識・芸術・道徳・信仰などの精神的所産の総体である文化の共通する空間的広がりを指している。しかし、縄文時代にあっては、精神生活の解明は難しく、一般に土器や石器などの共通の型式の分布域を文化圏と理解している場合が少なくない。
縄文土器は、家族ないしは集落単位で製作されていたと考えられており、同じ形態や文様の土器が一定の量で分布するならば、そこにはかなりの交流かあったと推測される。それは、土器ばかりでなく知識や技術・価値観なども同じ様で、巨視的には同じ文化圏であったと考えられる。
高い山や広い海などがあれば文化の伝播の障壁になり、文化圏は明確に分かれる場合もあろう。しかし多くの場合、文化圏の中心部から周辺に離れるに従い、その文化要素は薄くなり、他の隣接する文化圏の要素が強くなる傾向が認められる。また、文化圏の周辺は文化の交差域であり、新しい文化を生む源流の地になる可能性を多分に含んでいる。たとえば中期中頃の県央に位置する本町の上の原遺跡と県北の西那須野町槻沢遺跡における関東系と東北系の土器の割合を較べると、両地方の要素を取り入れた折衷土器も少なくないが、前者が東関東系の阿玉台式や中峠式・加曽利EⅠ式などの在地的な土器が主体であるのに対し、後者は東北系の大木8a・8b式土器のほうが圧倒的に多い。県南の遺跡では、東北系の土器は更に少なくなり、一集落での出土は数点程度という在り方を示している。