41図 塙平遺跡の住居内埋甕
縄文人にとって生命の誕生は実に神秘的であり、子供が無事生まれてくることは望外の喜びであったものと思われる。しかし、無事生まれたからといって安心はできず、抵抗力の少ない子供は病気や怪我などにより命を落とすことも少なくなかった。実際に縄文人の喜怒哀楽といった心を理解することは極めて難しいことではあるが、安産を願って作られたと思われる土偶や、中部地方の出産を表した中期の土器などからその思いの一端が感じ取れる。子供の無病息災を願ったものとしては、東北地方から北海道の後期の遺跡から出土している粘土板に乳幼児の手形や足形を押した土製品などがある。
遺構の中では、竪穴住居跡の入口部分に埋設される埋甕などもこの可能性がある。埋甕は妊婦がお産をした後の胎盤(えな)を納め、人の出入りの激しい場所に埋設されもので、民俗例などからそれを人が踏んだり跨いだりすればするほど子供は丈夫に育つというものである。これまで住居内の埋甕については、死産児を入れ再生を願ったとする説もあったが、乳幼児の骨などが発見された例がなく、埋甕内の土壌分析により胎盤に由来する高等哺乳動物の脂肪酸が検出されたことなどから、胎盤収納説が有力となってきている。
この住居内埋甕の風習は中期中頃に中部~西関東地方で出現し、少し遅れて周辺地域に波及して行ったと考えられている。本町ではこの時期の発掘調査例がなく明らかでないが、県内では中期後半から末葉の時期のものが、南那須町室の木遺跡、茂木町塙平遺跡、小川町三輪仲町遺跡、西那須野町槻沢遺跡などで発見されている。これらに使用される土器は、日常の煮炊きに用いた深鉢形土器を転用したものであるが、胴部下半を欠いたり、底部に穿孔を施すなど、本来の土器としての役割を停止させてから使用している。