人は成長していくにつれ、成人や結婚のほか、身内の不幸も経験することになる。これらの通過儀礼として行われたもののひとつが、激痛に耐えながら健康な歯を一定の決まりのもとに抜いていく抜歯という風習である。抜歯は中期から晩期にかけて全国的にみられるもので、関東地方では後期以降に普及する。しかし、本県ではこの時期の人骨の出土例が少なく、抜歯の明らかなものはない。
全国各地の抜歯人骨を調べた春成秀爾は、抜歯は男女いずれにもみられ、同じ抜歯形態のものが同じ地区に埋葬される傾向が高いことから、他の集落や部族から婚姻により入ってきた男女に対し行われたものという解釈を示した(春成秀爾 一九八一)。原則的には、見える部分の切歯や犬歯を上下数本ずつ左右対称に抜いており、抜歯の形態により死ぬまで出身集落が判るようにしたもので、自分の生まれたムラの習俗を断ち切り、新しいムラの一員として加わるための肉体的な試練として執り行われたものと考えられている。また、一目で出自がわかることから、縄文人の長い体験からタブーとしていた近親の結婚も避けられたであろう。
このほか、耳たぶに穴をあけて装着した耳飾りや腕輪・腰飾りなども、何らかの通過儀礼に伴い着装が許されたものと考えられる。