髪は土偶などから推測すると女性は結髪で、骨角製のヘアピンや笄、漆塗りの櫛を挿していたものと思われる。鳥浜貝塚では前期の層から漆塗りの櫛が出土しており、六,〇〇〇年前に櫛がすでに存在していたことを裏付ける。顔にはイレズミや、祭りの時には顔料が塗られていたことが予想される。
耳たぶには土偶や民族例などから穴を開け、耳飾りを嵌め込んでいたらしい。前期には土製や石製の玦状耳飾り、中期には上の原遺跡でも出土しているような小型の耳飾り(耳栓)となるが、一集落での出土は数個でそれほど多くはなく、一部の人だけが装着できたものと思われる。後期には大小さまざまな滑車形のものが主体となり、晩期には透かし彫りの装飾性に富んだものも増える。耳飾りの差異の意味はあまり明確でないが、出自や年齢などの差を示すものとも考えられている。耳飾りは後期末から晩期前半には一遺跡の出土例も多くなり、藤岡町藤岡神社遺跡では九〇〇個にも及ぶ土製耳飾りが出土している。また、遺構に伴うものとしては、根古谷台遺跡で前期の墓壙から玦状耳飾が対で出土している例や槻沢遺跡の後期前半の土坑から朱彩された同形の耳飾りが二個一対で出土している例など、耳飾りをつけたまま埋葬されたことがうかがえる。
縄文人の胸には緑色の翡翠の大珠や勾玉などの首飾りが掛けられていたものと思われる。しかし、先にも述べたが翡翠の大珠は一遺跡一点程度の出土であり、地域の拠点的集落からの出土が一般的であることから、集団に帰属する貴重な装身具であったと推察されている。この他、女性の腕には貝輪や土製の腕飾り、男性の腰には鹿角製の腰飾りなどがつけられていたことが埋葬人骨などから予想される。
50図 土偶から想像した縄文人の服飾(千葉県「芝山町史」より)
これらの装身具の中には、日常生活において誰もが気軽に身につけていたものとは考えられないものもあり、ムラの祭り・成人式・結婚式・埋葬などの際に身につけた呪物のような性格をもっていたものも少なくなかろう。