縄文後期になると、気侯の寒冷化が進み、内陸の縄文人の食糧生産の基盤である森林に徐々に打撃を与え、人口は減少の一途をたどるようになる。このような動きは縄文時代の祭祀にも大きく関係しており、後期以降、祭祀や儀礼に係わる遺構や遺物は急に増加していき、後期末から晩期前半にはピークに達した。
これまでの狩猟採集という経済基盤が自然に大きく左右され、不安定であることを縄文人が痛感したとき、西方から稲作という生産性や安定度の高い新しい文化が波及して来たと考えられる。しかし、縄文人はこの文化を一方的に全てを受け入れたわけではなく、長い時間をかけて築き上げてきた伝統文化の中に、取捨選択しながら上手にアレンジして採り入れていったようである。
この経済基盤の変化は、縄文文化の終りを意味し、関東地方では晩期後半の浮線文土器の段階がこの時期に相当しよう。土器から地文の縄文が消え、西からの影響と考えられる条痕文が多用されるようになり、器種は精製の浅鉢形土器と粗製の深鉢形土器が主体で、若干の壺形土器がみられる程度になる。そして、精神生活に係わる遺構・遺物もこの時期をもってほとんど姿を消してしまう。
本県の多くの遺跡がこの時期に断絶し、これ以降の遺跡は急激に減少していく。また、遺跡の規模は小さく短期間で収束する集落が多くなり、謎の多い時代に突入していく。