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イメージの転換

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 日本史のなかで弥生時代といえば何を思い描くだろうか。多くの人の記憶には、静岡市の登呂遺跡があろう。最近まで、歴史の教科書には必ずといっていいほど取り上げられたこの遺跡の意義は、二,〇〇〇年前の水田跡の発見にある。狩猟、採集生活の縄文時代に較べて、米は計画的な生産物であり、現在につながる農耕社会の基礎、と説明されてきた。登呂の発掘は敗戦後まもなくのことで、「食べる」ということに必死だった日本にとって明るい話題を提供した。国会でも超党派で発掘隊に食糧を配給したくらい、日本全体が注目した。そして、この調査によって、「農村=のどかな社会」という弥生時代像が定着した。
 その後、各地の発掘調査でえられた成果は、弥生社会のとらえ方に少しずつ修正を迫っていたが、その清算という形で登場したのが佐賀県吉野ケ里遺跡であった。ムラをぐるりと囲む堀や武器の刺さった人骨は、戦いのまぎれもない証拠とされ、弥生時代は、牧歌的イメージから一転、争いの時代と考えられるようになった。教科書でも弥生時代の代表は、今は吉野ケ里遺跡に替わっている。
 米作りと争い、この両者はきわめて関連が深い。この章では、二つの歴史的な事象の始まった時代という認識のもとに記していこうと思う。