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米作りと金属器

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 縄文時代の終わりころ、朝鮮半島から渡ってきた人々は、我が国にはない文化を持ち込んだ。食糧生産としての米作りと、青銅器、鉄器といった金属の道具がその代表例であるが、それらをとりまく種々の技術もあわせて導入された。米作りを直接証明するのは水田跡である。玄界灘に面した福岡市板付遺跡や唐津市菜畑遺跡では、最も古い水田跡が見つかっている。板付遺跡では水田のみならず、水を取り入れる水路や排水路、水をせきとめる井堰が発見され、それらがくずれないような杭や矢板も伴っており、すでに完成された技術体系のもとに作られていたことが知られる。ここからは米作りに必要な道具類も出土している。耕作具として木製の鍬、水田をならすえぶり、稲穂の穂首を刈り取る石包丁などである。
 また、木の道具を作る石器も、朝鮮半島と同様に磨製のものが作られ、伐採から木器の細部加工の用具まで、用途に応じた形や大きさのものが認められる。それらも縄文文化にはなかった品々で、水田耕作に関連する一切の道具までがもたらされたことがわかる。
 金属器は我が国にはなかった素材の道具である。はじめに登場するのは鉄器で、おもに工具や農具であった。これまでの石器にくらべ、短時間で作業が可能となり、また、細部の加工にも有効であった。全国的に後期になると石器類が消滅するが、それは、鉄器が工具の主役を奪ったためにほかならない。やや遅れて青銅器も伝えられた。我々が目にするのは緑青がふいた、文字通り青銅であるが、当時は黄金に輝いていた。鉄器がたたきのばして作っていくのに対し、青銅器は銅と錫を溶かした原料を、鋳型に流し込んで作る。製品としては、銅鐸、銅鏡などのほかに、銅剣、銅矛といった武器がある。青銅器は次第に大形化し、実用品から祭祀用へと変化していく。
 ところで、弥生文化成立の要因はどこにもとめられるであろうか。遺跡埋積土の分析や植生復元の成果によれば、この時期は気候が寒冷化し不安定であったという。この現象は世界的であったらしく、中国では温暖な地を求めて北から南へ民族が移動し、殷、周、春秋戦国の混乱期を迎え、その余波が朝鮮半島に及び、そこの人々たちが難民となって日本へ渡ったとする考えがある(安田喜憲 一九九七)。政治的な動きと結びつくかどうかは、「モノ」から検討していく考古学の側からは証明できないことであるが、寒冷化によってひきおこされた自然環境の変化が弥生文化成立に係わったことは十分考えられる。

1図 弥生時代の主な大陸系遺物(『図解・日本の人類遺跡』より構成 縮尺不同)