また、木の道具を作る石器も、朝鮮半島と同様に磨製のものが作られ、伐採から木器の細部加工の用具まで、用途に応じた形や大きさのものが認められる。それらも縄文文化にはなかった品々で、水田耕作に関連する一切の道具までがもたらされたことがわかる。
金属器は我が国にはなかった素材の道具である。はじめに登場するのは鉄器で、おもに工具や農具であった。これまでの石器にくらべ、短時間で作業が可能となり、また、細部の加工にも有効であった。全国的に後期になると石器類が消滅するが、それは、鉄器が工具の主役を奪ったためにほかならない。やや遅れて青銅器も伝えられた。我々が目にするのは緑青がふいた、文字通り青銅であるが、当時は黄金に輝いていた。鉄器がたたきのばして作っていくのに対し、青銅器は銅と錫を溶かした原料を、鋳型に流し込んで作る。製品としては、銅鐸、銅鏡などのほかに、銅剣、銅矛といった武器がある。青銅器は次第に大形化し、実用品から祭祀用へと変化していく。
ところで、弥生文化成立の要因はどこにもとめられるであろうか。遺跡埋積土の分析や植生復元の成果によれば、この時期は気候が寒冷化し不安定であったという。この現象は世界的であったらしく、中国では温暖な地を求めて北から南へ民族が移動し、殷、周、春秋戦国の混乱期を迎え、その余波が朝鮮半島に及び、そこの人々たちが難民となって日本へ渡ったとする考えがある(安田喜憲 一九九七)。政治的な動きと結びつくかどうかは、「モノ」から検討していく考古学の側からは証明できないことであるが、寒冷化によってひきおこされた自然環境の変化が弥生文化成立に係わったことは十分考えられる。
1図 弥生時代の主な大陸系遺物(『図解・日本の人類遺跡』より構成 縮尺不同)