弥生時代を細かくわける場合、その基準となっているのは土器である。その区分には二通りの呼び方がある。ひとつは前期、中期、後期の三時期区分である。この区分では、例えば中期と後期の境を石器の減少という社会の変化をも含んでいるため、地域間でズレが生じている。
他のひとつは、純粋に土器の様式による区分として使うのⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期、Ⅳ期、Ⅴ期の五時期区分である。これによると全国を対象に横のつながりに大きな違いが出ない。弥生時代を「日本で食糧生産に基礎をおく生活」が開始された時期と定義すれば(佐原 真 一九七五)、いままで縄文時代晩期とされていた最古の水田跡の時期として早期、あるいは先Ⅰ期が設定される。二通りの区分の対応は前期=Ⅰ期、中期=Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ期、後期=Ⅴ期とする地域が多い。実年代については、研究者により微妙な違いがあるが、ここでは、一例として佐原真の説(佐原 真 一九九〇)をあげる。すなわち、先Ⅰ期=紀元前(以下前と略す)三、四世紀、Ⅰ期=前二、三世紀、Ⅱ期=前二世紀、Ⅲ期=前一世紀、Ⅳ期=一世紀、Ⅴ期=二、三世紀である。ここで注意されるのは、佐原も指摘するように、各期のある一点がその世紀のなかにあるだろうとする、おおよその目安にすぎないことである。
ところで、一九九六年四月二七日の新聞には、定説を覆す記事がのった。大阪府池上曽根遺跡から出土した建物の柱材を年代測定した結果、紀元前五二年という数字がでた。正確には年輪に基づく柱材(ヒノキ)の伐採の年である。建物は伐採後間もなく建てられたとみられ、ほぼ建物の年代を示すと考えてよい。この測定法は、年輪年代法とよばれ、一年ごとに形成される年輪幅の細かな差を測り、それを数千年ものパターンのなかであてはめていくもの。池上曽根遺跡の建物は、従来の土器の年代観からは中期後半(Ⅳ期)、一世紀中頃と推定されていたものであり、弥生中期は従前の年代を約一〇〇年さかのぼることとなった。これにより、弥生後期あるいは、古墳時代の開始時期に大きな影響を及ぼすこととなった。以下、本稿では時期の記載にあたっては前、中、後期の区分を用い、必要に応じ五期区分を使うこととする。