米作りの技術は前期のうちに西日本一帯にひろがった。それは遠賀川式とよばれる土器分布と一致する。遠賀川式土器は前期土器の総称で、朝鮮半島の無文土器と北九州地方の縄文晩期の土器の影響をうけて北九州で成立した。縄文晩期に較べ壼の占める割合が高くなり、全体に文様は少ない。この土器はある程度の地域差があるものの、伊勢湾沿岸までの西日本一帯に認められる。その分布域には水田跡や、焼けた米(炭化米)、石包丁など農耕に直接関連する証拠も多くみられる。米作りは前期の後半に東北地方まで伝わっている。それは、遠賀川式をまねた土器や、炭化米の存在、そして青森県砂沢遺跡で発掘された水田跡などが如実に物語っている。東日本ではいまだ点の存在であるが、弥生人は九州から本州全般にわたって、前期のうちに米を知ったことがわかる。
これまでに発掘された水田跡をみると、大きく二つにわけられる。ひとつは区画を大きくするもの(登呂遺跡では一区画が平均一,〇〇〇平方メートルをこえる)と、もうひとつはさらにそのなかを小さく区切るもの(岡山県百間川遺跡では一区画平均で三〇平方メートル)である。後者は緩やな傾斜地で水田の中に水を水平にはるために区切ったためであり、大小の区画の存在は、すでに地形に応じた水田の作り方をしていたことを示している。
弥生時代というと、米が強調されがちであるが、当時の人々の食生活は多種多様であった。魚類は現在とかわらないものをとっていたようであるし、哺乳動物ではシカ、イノシシなどの骨が各地の遺跡から見つかっている。クリやクルミの野生種、モモ、アズキ、アワ、マメ等の栽培植物も数多く出土しており、これらはみな縄文時代から食されていたものである。つまり伝統的な食べ物に米が加わったと理解すべきであろう。生活の道具、石器や木器も朝鮮半島の影響があるにしても、母体となったのは縄文時代からのものであるし、住まいもいぜんとして竪穴住居を作り、使っている。
在来の縄文文化を基礎に、大陸伝来の文化が加わったことによって、新たな文化として誕生したのが、弥生文化ということができる。