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環濠集落の機能

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2図 環濠集落平面図(神奈川県大塚遺跡)(『図解・日本の人類遺跡』に加筆)

 当時の生活の場、つまりムラはどのようなものだったのか。大きな特徴は、ムラのまわりを濠でかこってしまう環濠集落が出現したことである。ムラにはひとびとが多く住む大集落と、小規模な周辺の集落があるが、環濠は前者のいわば拠点的なムラにつくられることが多い。環濠の形は地形に左右されるが、楕円形や円形のものである。濠の規模は深さ、幅とも二メートル内外、囲む広さは径数一〇〇メートルであるが、西日本でははるかに大規模のものが多い。この環濠は、水田を営む水利権などをめぐり、ムラ同士の緊張状態が高まった際の防御のため、つまり戦にそなえる守りと考えられている。愛知県朝日遺跡では、濠のなかに木の先を尖らせた杭を立て並べており、守りの機能を高めていることがわかる。
 弥生時代の様子を中国側から見た文献が有名な『魏志』倭人伝である。ここに記されたことがらは発掘調査の成果により多くの部分で証明されている。記載のなかに「倭国乱れ相攻伐すること暦年」とある。この戦いの証拠はいくつもある。一つは、先にのべた守りのムラ環濠集落や、見晴らしのよい高台にムラを構えることである。
 これを高地性集落という。高台は相手の動きを監視するには絶好の場所であり、味方に知らせる狼煙をあげた跡なども見つかることがある。群馬県中高瀬観音山遺跡なども同じ性格のムラととらえる研究者もいるが、北関東まで倭国乱の範囲に含められるのか、まだ検討を要する。
 次に武器。大陸から渡ってきた金属製に加えて、石製、木製も多く作られた。縄文時代には狩猟用だった弓矢も武器として利用している。その戦いの生々しい姿は墓にみいだすことができる。戦いの犠牲者とみられる人骨が、西日本、特に九州を中心に一〇〇体くらい見つかっている。なかには、石鏃が一〇数本刺さったものや、石剣が骨に刺さり折れてしまっているもの、首から上を失った人骨、頭骨だけのものなどがある。佐賀県吉野ケ里遺跡でも首なし人骨が甕のなかに納められていた。このように、争いの痕跡が多く認められるようになったのもこの時代の特徴ということができる。