開発による発掘調査が増加するなかでもこの時代の集落で規模が大きいものは発見されていない。このことは本県の場合、南関東以南と比較しても、当時の人口密度は低かったことを示すとみてよい。
ここでは、いままで明らかになった遺跡から本県の弥生文化を垣間みてみよう。
東日本の弥生文化開始期に特徴的な風習として再葬墓がある。これは、中部地方以東に盛行する墓制で、東海西部の縄文時代晩期にその源流がみられるという。直径一メートルほどの穴に、壺などを並べて埋めるものだが、この土器には遺骸をいれることは不可能である。他の場所でいったん埋葬し、骨にしてから、一部の骨を改めて土器に納めたと考えられている。これが再葬墓と呼ばれる所以である。
再葬墓は、前期末~中期中頃(Ⅲ期)に盛んに作られるが、このころの集落は本県に限らずまだ発見例が少なく、弥生文化が、この地方で成立した当時の社会、生活を解明するうえで大きな支障となっている。
墓坑は互いに隣り合う近い位置にまとまって作られる。その場所には住居跡が見つからないことから、居住域と墓域が区別されていたと想定される。
また、ひとつの墓坑には複数の土器がいれられることが多いことなどから、血縁者同士を一緒に葬ったものと考えることもできる。副葬品としては、管玉や石鏃などが見いだされることもある。
県内の再葬墓は葛生町上仙波遺跡、粟野町戸木内遺跡、佐野市出流原遺跡、野木町清六Ⅲ遺跡などの発見例が有名である。本町の近隣では、芳賀町下高根沢の免の内台遺跡で一基見つかっている。この遺構は清原工業団地の一角、野元川を望む段丘東端にある。直径一二〇センチの楕円形で、深さ三〇センチ。鉢、蓋など数点分にあたる土器が出土した。縄文時代の様相を色濃く残している墓坑である。
3図 免の内台遺跡の再葬墓(芳賀町教育委員会提供)