本県では中期後半になって、住居跡の存在が知られるようになる。今市市上山遺跡、宇都宮市山崎北遺跡、鹿沼市大野原遺跡、壬生町御新田遺跡などがあげられる。これらの遺跡にはいくつかの共通点がある。
ひとつは、一~二軒のきわめて小規模な集落であること、次に、それらの立地は、小さな谷に面した狭い台地、あるいはその斜面にあることである。南河内町から国分寺町にまたがる自治医大の周辺地区の台地では、開発に伴って広範囲に調査され、弥生中期の集落がいくつか確認されている。ここでも低地を望むように、二軒程度の家が数一〇〇メートルの間隔をおいて点在している。この時期の南関東では拠点となるムラには環濠が形成され、本格的な農耕社会を迎えたことが知られている。
これらとは対照的な、小規模なムラのみで構成されたのが、本県の一般的な在り方ととらえることができる。米作りはムラの共同作業が前提となるが、小さなムラでの水田耕作の実態は細々としたものであったろうと想像されるのである。
県内では弥生時代の水田跡はいまのところ見つかっていない。ただ、土器に籾のあとが残っている例があり(壬生町御新田遺跡)、米作りの社会になっていたことは間違いない。
後期になると、県内でも遺跡数が増える。典型的な遺跡の在り方のひとつを見てみよう。
上三川町上神主地区では、三つの遺跡が近接してあった。地形は、幅およそ一五〇メートルの低地が蛇行して南東ののびる谷筋にひらけ、両側は一段高い台地になっている。その低地をのぞむように、北側に向原南遺跡、南西に上ノ原遺跡、東側に殿山遺跡がそれぞれ位置する。いずれも台地の縁辺部に住居跡があり、向原南で四軒、上ノ原で一〇軒、殿山では二一軒が発掘調査されている。前記した自治医大周辺地区とくらべると低地をのぞむ立地に大きな変化はないが、各集落とも住居数の増加、つまり集落の規模が大きくなったこと、そして、ひとつの谷を中心として集落がいくつかまとまりを見せていることを指摘できる。他にも後期の遺跡では、真岡市柳久保遺跡で五軒、南河内町朝日観音遺跡で七軒見つかっており、同様に規模は大きくなっていることがわかる。
墓制の状況はどうであろうか。中期の前半に盛んであった再葬墓の風習はおそらく終りを迎えたようである。本県では出土例が少ないが、周辺地域の事例をみると、土坑墓、あるいは壺や甕を棺とするもの(土器棺墓)であった可能性が高い。土坑墓は、成人の遺体をそのまま葬ったと考えられ、穴は人ひとりが入るほどの大きさである。土器棺墓は、南河内町諏訪山遺跡で一基見つかっている。ひとつの土器がぎりぎりはいるくらいの穴を掘り、遺体を納めた土器を据えるもので、同じ土器の破片で蓋をしている。
おもに幼児用と推定される。いずれもひとりに対し、ひとつの施設になったことで、再葬墓が複数の遺骸を納めるのとは大きく違っている。本県では後期になっても墓の明確な検出例はない。おそらくは、中期後半同様の墓制が続いていたと想定される。南関東より西では、方形周溝墓という、四角い溝で区画する墓が盛行するが、本県では古墳時代に入ってから出現する。