本町の弥生時代遺跡は、町教育委員会が一九九一~一九九三年に行った所在調査で確認されたのが五遺跡。そのうち集落跡らしきものは横場A遺跡(上柏崎)のみで、他は土器片を採集できただけで、遺跡の内容は明らかでない。これらの遺跡をみると、立地から三つにわけられる。
ひとつは斧窪遺跡(下柏崎字坂下、入ノ窪)で、喜連川丘陵の頂部にある。二つめは横場A遺跡(上柏崎字横場)や姥窪遺跡(中柏崎字姥窪)で、喜連川丘陵の縁辺部に位置し、低地からの比高数メートルのところ。三つめは、大中島遺跡(花岡字大中島)、下松原A・B遺跡(花岡字下松原)などで、平野部の小高い土地にあるものである。後二者はごく一般的な立地であるが、斧窪遺跡の場合はやや特殊で、低地から比高二〇メートルの丘陵上、幅四〇メートルと狭い平坦部に位置している。これと立地のにている益子町の車堂遺跡は、現水田面との比高一五メートルの舌状台地にあり、この部分の平坦面は四〇×四〇メートルほどしかない。ここに三軒の住居跡があった。この一帯には同じような小台地に同時期の遺跡が四カ所確認されており、小規模な集落が近接して営まれた様子がうかがわれる。斧窪遺跡も同じような集落の在り方と考えることができる。類推すると、前に述べた、西日本にみられる高地性集落ににているとする見方も可能かもしれない。本町の遺跡は弥生後期も後半が中心で、下松原A・Bは古墳時代の前期へ続いている。