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「地方」の躍進

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1図 足利市熊野山古墳・埴輪(葉鹿山)

 四世紀から七世紀にかけて、権力者の墳墓造営が盛行した時期を古墳時代と呼び慣している。この時代は、前期=四世紀、中期=五世紀、後期=六・七世紀に大別され、古墳文化は地域ごとに特徴的な展開をみせるが、大勢としては畿内にある中央権力がしだいに支配力を強め、地方権力を支配下に組み入れて強固な国家体制を形成していく過程を示すものであった。その間、大王権力の象徴として出現した壮大な前方後円墳は、国家統合の進展に伴って地方首長に継がれ、支配力を誇示するかのように地域の大規模墳として造営されていく。やがて、仏教と律令制を受容した中央政府が新たな国家編成を進める時期には古墳造営は急速に衰えはじめる。しかし、東日本では古墳造営は地方の小首長に継れ、暫しの輝きを放つことになる。
 この時代は、生産技術が格段に進歩し、地方へ波及していった。朝鮮半島から移住した技術集団が、織物、製鉄や鍛冶、土木建築、陶器、更には漢字など新しい技術・文化を伝え畿内の首長たちはこれらを組織して体制を強化した。
 六世紀には、これまでの帰化人集団に加えて、地方の首長が率いる在地の専業集団が活動しはじめ、農地の拡大により生産力が向上、また諸物資の流通も活発化していく。
 代表的な新技術の一つに須恵器がある。在来の土師器が野焼き(約九〇〇度で焼成)のホームメイドであったのに対し、須恵器は半島渡来の窯焼き(約一,二〇〇度で焼成)でロクロ成形の硬質、青灰色の貴重な陶器であった。地方の首長たちは須恵器に憧れ、しだいに地方窯が定着をみるようになるが、工人集団が地方で広く生産活動を行うのは七世紀以降とされる。須恵器の生産は、土師器や埴輪の生産にも大きな影響を与えた。須恵器を真似た土師器の甑や模倣坏などが出現する一方、工人集団の技術を取り入れて埴輪の焼成に窯が使用されるようになる。六世紀後半、古墳を飾る埴輪祭式の盛行は、窯で量産された埴輪の供給が土台となっている。
 鉄器の生産は、武器や馬具などを主体とし、原料は専ら中国や朝鮮から輸入した素材(鉄鋋)であったが、八世紀代には国内産の鉄素材も出現してくる。現代の鎌に共通する曲刃鎌やU字型の鍬先など農具にも鉄器が普及する。
 農業社会を基盤とする権力支配の成立、渡来した新技術に基づく生産力の向上、ヒト・モノそして文化の活発な交流-古墳時代はエネルギッシュに地域性が形成された〈地方の時代〉であった。そして新たな国家体制へと向かう躍進の時代でもあった。