2図 小川町・那須八幡塚古墳の全景(小川町教育委員会提供)
3図 吉田・新宿古墳群の分布状況(真保昌弘 原図)
小川町南の那珂川右岸に面する崖線に沿って前方後方墳、方墳が並ぶ地域がある。那珂川に合流する支流・権津川の縁辺で、新宿・吉田古墳群と称される。約一キロの間に、上流寄りの新宿地区で方墳八基、下流寄りの吉田地区で前方後方墳二基、方墳五基が崖線に並び、周辺にも墳丘らしい数カ所の地ふくれが認められる。この中の前方後方墳とは、一九五二年に発掘され銅鏡・鉄剣・鉄製工具類などが出土した那須八幡塚古墳と吉田温泉神社古墳(後方部は削平、破壊)とで、古代那須国を代表する前期古墳である。小川町は、これらの古墳群を史跡公園として整備する計画を進めているが、一九九〇年以降、吉田温泉神社古墳周辺の遺跡範囲を確認する発掘調査(真保昌弘 一九九七)により古墳群の概要が明らかになった。
吉田温泉神社古墳(全長四七メートル)を中心とする周辺には、大小二〇数基の方墳が群集していた。これらの規模は一辺が六~二二メートルで、ほとんどのものは墳丘が削平され主体部が失われているが、周溝が方形に廻っていることから方墳と認められる。
方墳群は、吉田温泉神社古墳を挟んで北側と南側に二列に並んでおり、周溝内から出土した土器が吉田温泉神社古墳に近いものは古く、離れたものは新しい時期を示すことから、この前方後方墳を核として、方墳群が造営され続けられたことが分かる、という。
首長墓は単独に存在したのではなかった。首長を中核とする階層的な集団が前期古墳の墓域を形成したのである。首長を始祖とし、前方後方墳に祀り、以降、集団のメンバーが墳形を方墳に変え、臣従するかのように配列して祀られ、年を経ながら拡大していった聖域。そこに、那須地方の首長とそれを戴く古代の勢力集団の構成を垣間みる思いがする。東日本における古墳前期は前方後方墳の時代だった。これらの前方後方墳からは東海地方の西部(伊勢湾付近)の土師器が出土する。各地の首長が古墳造営を行ううえに、東海地方からの人の移住や事業への参画があったのであろう。
前方後方墳は、地方の首長が中央政権との関係を結ぶ以前の墓制ともいわれる。畿内に大王陵として出現した巨大な前方後円墳と比べて、一般に規模も小さく副葬品も貧弱である。前方後方墳は畿内の代表的な前方後円墳をモデルに規模を縮少して設計されたという説がある。近年、墳丘の修復、整備が行われ、端正な姿を現した那須八幡塚古墳は、前方部の側縁が幾分丸みを帯びて外側へふくらんだ平面形を呈し、類型では「箸墓型」に近いようである。首長の権威を表わす墳墓は大王陵に源流を求めたのであろうか。
那須地方の首長墓は、四世紀中ころから約一世紀の間に、駒形大塚古墳、吉田温泉神社古墳、那須八幡塚古墳(以上、小川町)、上侍塚古墳、上侍塚北古墳、下侍塚古墳(以上、湯津上村)の六基の前方後方墳群が連続的に造営される。本県では鬼怒川以東に出現した初の地域支配で、那珂川、箒川の合流点あたりに拠点があったとみられる。豊かな生産力を基盤に、古代那須国が生成する原点である。小川・湯津上の一帯は、これに係わる遺跡の宝庫で、発掘のごとに重要発見が相次ぐ場所。研究、解明はまだ途上にある。