4図 塚山古墳群の空撮(宇都宮市教育委員会提供)
上・塚山古墳、下・塚山西古墳。道路を挟んで右が塚山南古墳で、その直ぐ上の建物は宇都宮南警察署
5図 小山市・摩利支天塚古墳の復元図
古墳時代中期に入ると、本県では鬼怒川以西に大規模な前方後円墳が出現しはじめる。中でも、宇都宮市の南部、田川左岸の低台地は前期から中期にかけての大形古墳が多数分布しており、全長約一〇〇メートルの笹塚古墳は五世紀中ごろにつくられた本格的な前方後円墳で、広々とした盾形の周湟の中に雄姿を横たえている。その北西約四・七キロの地点には三基の前方後円墳からなる塚山古墳群があり、五世紀後半から六世紀にかけて造営されたものとみられる。中でも主墳の塚山古墳(全長九五メートル)は、前方部の前縁が三角にやや張り出した「剣菱型前方部」をもち、〝王者の古墳〟の風格を漂わせている。これらの大規模墳は、下毛野国の成立に係わる首長墓と目されるが、石部正志は、近年の発掘調査の成果をふまえ、古代河内郡の三勢力の分立を前提とし、畿内政権と直結して初めて出現した首長墓が笹塚古墳とし、以降、中央への貢納・奉仕の係わりの中で中小クラスの首長が進出し、帆立貝型の前方後円墳が多出してくる、と述べている。
五世紀末葉、小山市飯塚に壮大な前方後円墳が隣り合って造営される。まず、全長一九七メートルの摩利支天塚古墳、次いで県内最大の全長二〇〇メートル以上の琵琶塚古墳である。両方とも史跡整備のために試掘と測量調査が行われているが、内部主体はじめ詳細は明らかでない。摩利支天塚古墳は、自然地形を利用した二段築成の墳丘をもち、二重の周湟が広い墓域を形成する。前方部は「剣菱形」、下野国の大首長の地位を象徴している。琵琶塚古墳に続く地方権力の確立である。
六世紀の後半から各地に小規模な円墳が群集して造営されるようになり、七世紀代にかけて小地域の支配者たちの活動が盛んとなる。古代河内郡の地域では、壬生町・車塚古墳をはじめ大形円墳が築造され、畿内政権の地方制度の中に位置づけられた下野国の国造やそのレベルの権力者の存在を裏づけている。
もはや前方後円墳は造られなくなり、円墳が下位の権力者まで普及する。古墳の一般化は、従前の権威の誇示から同族集団の家族墓へと性格が変わり、古墳祭祀の形式化、衰退化へつながっていった。爆発的に増加する後期の群集墳。それは、農業生産力の向上により下位の権力者にも古墳に手が届く状況であったことを示しているのだが、一面では、古墳が統治権力を象徴し首長の公的な地位が人々に共通理解された厚葬の時代から私的で定形的な小地域の葬送儀礼へと変質していったことを物語っている。