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〝中筋ムラ〟

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 一般の遺跡を発掘した場合、黒土が方形や円形に赤土の面に広がっており、その黒土を除去すると竪穴住居や土坑の跡が姿を現し、その内部に土器をはじめ遺物が存在している。だが、竪穴住居は当時の生活面であった黒土から掘り込んだのであり、赤土の中にあるのは住居跡の下半分か底の部分ということになる。竪穴住居の上半分の状態、まして屋根の構造まで判明することなど思いもよらない話である。ところが、近年、その貴重な発見が群馬県西部の子持村・黒井峯遺跡や渋川市・中筋遺跡などから相次いだ。古墳時代中期の農家が厚く降り積もった火山灰の下から当時の生活跡も生々しく発掘されたのである。約一、五〇〇年前、榛名山の二ツ岳が大噴火を起こし、火砕流が東麓一帯に扇状に広がり一帯のムラを壊滅させた。ムラは放棄され、生活を中断された状況でパックされ遺存したのだった。
 中筋遺跡は、発掘調査の結果に基づいてムラの一部が復元されているが、史跡紹介のパンフレット(群馬県渋川市教育委員会 一九九五)などによりその様子をみよう。
 柴垣に囲まれた数軒の家屋は一つの単位集団(複数の家族)が生活するワンセット。隣接する地域に畑や小屋があり、他の一角には祭祀場とみられる区域がある。住民の家屋は竪穴住居と平地住居とがあり、両者ともカマドが付設されているところから、前者は冬用、後者は夏用で、季節によりの住みかえをしたものらしい。竪穴住居は、地表に屋根が密着し、一端から煙突がみえる。家屋本体はすっぽりと地下に納っている。地表から一辺六~七メートルの方形に七〇センチほど穴を掘り下げ、床面に柱を立て屋根を葺く。軒先は地表に接し、その周囲に盛り土(周堤)を廻らす。屋根は、中間に土を挟んだ草屋根で、その土が断熱材の役目を果たすとのこと。文字どおりの竪穴住居である。
 外周の畑地に接して、物置、食糧庫などの小屋があり、黒井峯遺跡では家畜小屋もみつかっている。これらの施設は、母屋の竪穴住居、〝離れ〟の平地住居、穀物倉庫、天屋の作業場や器材置場、家畜小屋、野菜畑、祀祠などで、米づくり農家の屋敷原形は古墳時代にはできあがっていたことが分かる。

6図 渋川市・中筋遺跡の復元図(「中筋遺跡パンフレット」群馬県渋川市教育委員会提供)