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町域の群集墳

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11図 甲塚古墳群・1号墳

 喜連川丘陵の西裾、平野部に接する辺りの上柏崎字甲塚にある甲塚古墳群。午後の陽を浴びて紅葉の彩りの中、なだらかな起伏を見せて点在する円墳のたたずまいは、殊に心安らぐ里の秋の情景である。郷土の歴史遺産としての価値はもとより、土地の風土と一体化して年輪を重ねてきた遺跡の重み、風格を感じさせる景観でもある。
 高根沢町域の古墳は、伝承を含め二七カ所におよそ五八基(1表)。地形面では、喜連川丘陵の高台や裾部などに現存する古墳が最も多く、九カ所・二七基、この傾向は隣接の南那須町や芳賀町の地内にも及んでおり、古墳の造営が盛んに行われたことが分かる。丘陵中には、木の枝のように小河川や沢が狭長な谷底平野をつくり出しているが、多くの古墳は、これらの奥頭や縁辺に寄り集まるようにして分布(史料編Ⅰ・二八頁)している。それは、この谷底平野こそが当時の水田耕作の地であり、地域の支配者にとって基盤であったためで、一族の奥津城として家族墓が次々に造営されていった様子を示している。古墳時代の終末近く、小地域の首長たちがその支配域に根差した活動、存続などの在り方を反映したものともいえる。
 五行川低地の東縁に延びる低台地の氏家・仁井田台地には三カ所で二基が現存する。砂部遺跡の地内には古墳(仮称・砂部古墳)があった、と伝えられ、発掘調査でも円筒埴輪の破片が出土してその事実を裏づけている。この低台地南端の塚原古墳は三基あったというが現存は一基、直径約一五メートルの円墳で首長クラスのものとみられる。これらの古墳も、井沼川の細長い開析低地に臨むもので、そこに生業基盤をおく古墳後期の地域小集団の存在を跡づけているものと思われる。
 宝積寺台地には三カ所で三〇基が現存する。台地の縁辺や浅い谷の奥頭に小規模な円墳群が立地する。台地の東縁、五行川低地を見下す位置に単独で、井戸山古墳、台の原古墳が所在する。台の原古墳は滅失したが、円筒埴輪をもつ大型の円墳であった。高台の大型単独墳は首長クラスの墳墓と見なされるが、同様に円筒埴輪をもつ喜連川丘陵の愛宕塚古墳、氏家・仁井田台地の仮称・砂部古墳とともに、宝積寺台地の台の原古墳という三者の存在は、群集墳の時代に先駆ける首長勢力の分立を象徴しているように思われる。
 
[関連史資料] 塚原古墳現況平面図  (目録)