(※滅失) |
No. | 名称 | 摘要 | 住所 |
1 | ※並塚古墳 | 伝承 | 宝積寺字並塚 |
2 | 坂ノ上1号墳 | 円墳1基 | 〃 字坂上1491 |
坂ノ上2号墳 | 円墳1基 | 〃 〃 1486他 | |
3 | 台新田古墳群 | 円墳6基 | 飯室字下大野362他 |
4 | 大塚古墳 | 円墳1基 | 平田字大塚1578他 |
5 | 上の台古墳 | 円墳1基 | 亀梨字上の台577-4 |
6 | 亀梨1号墳 | 円墳1基 | 〃字台544 |
亀梨2号墳 | 円墳1基 | 〃 〃530 | |
亀梨3号墳 | 円墳1基 | 〃 〃526 | |
7 | 蛇熊古墳 | 円墳1基 | 〃字蛇熊 |
8 | ※宮ノ前古墳 | 円墳?1基 | 上柏崎字宮ノ前 |
出雲神社古墳 | 円墳 ? | 〃 〃 304 | |
出雲神社南古墳 | 円墳1基 | 〃 〃 328他 | |
9 | 甲塚古墳群 | 円墳8基 | 〃 字甲塚田中429他 |
10 | 窪古墳 | 円墳1基 | 〃 字窪441付近 |
11 | 愛宕塚古墳 | 円墳1基 | 〃 字甲塚469他 |
12 | カリマタ窪古墳 | 円墳3基 | 〃 字カリマタ窪31 |
13 | ※春日坂古墳 | 円墳?1基 | 〃 字春日坂 |
14 | ※塚田古墳 | 円墳?1基 | 〃 字塚田 |
15 | ※春日坂古墳群 | 円墳?2基 | 〃 字春日坂 |
16 | 塚原古墳 | 円墳1基 | 桑窪字塚原 |
17 | ※笹山古墳群 | 円墳4~5基 | 〃字笹山 |
18 | 笹山古墳 | 円墳1基 | 〃 〃 2026-1 |
19 | ※源次郎内古墳 | 円墳1基 | 下柏崎字源次郎内 |
20 | トヤ道塚古墳 | 円墳1基 | 〃 字入窪99 |
21 | 中根古墳 | 円墳1基 | 中柏崎字中根 |
22 | ※台の原古墳群 | 円墳8~9基 | 上高根沢字台の原 |
23 | 御料牧場B古墳 | 円墳1基 | 〃 字堂の原 |
24 | ※井戸山古墳 | 円墳?1基 | 〃 字台の原 |
25 | 井戸山塚古墳 | 円墳1基 | 〃 字堂の原3134他 |
26 | ※権現山古墳 | 円墳?1基 | 〃 字上の原(ホソダ敷地内) |
27 | ※権現山古墳 | 円墳?1基 | 〃 字上の原(箕輪 清宅地) |
13図 高根沢町の古墳分布図 (1)
13図 高根沢町の古墳分布図 (2)
高根沢町域に所在する古墳は、いずれも古墳後期、多くは終末期のものである。年代では六世紀から七世紀にかけてのころだが、墳形は円墳だけであり、各地域の首長墓に埴輪を立てた前方後円墳が盛んに造営された五世紀代から六世紀後半にかけての時代を過ぎてからのことである。
上柏崎の愛宕塚古墳は、頂部に平坦面をもつ円錐台の原形がよく遺存した円墳で、直径約四〇メートル、高さ約四・七メートルで県北では最大級である。墳丘の裾部で円筒埴輪の破片が見つかっており、埴輪列が裾部を廻っているものとみられる。破片の特徴からは細い年代の特定が難しいが、下野国で埴輪を立てることが最も流行したのは六世紀後半で、その終わり近くには埴輪祭式は消滅したとされるので、愛宕塚古墳もこの時期のどこかに位置づけられるのであろう。
次の七世紀代は群集墳が盛行する時代。喜連川丘陵には、北から南へ台新田古墳群、亀梨古墳群、甲塚古墳群、笹山古墳群などが分布し、氏家・仁井田台地の塚原古墳(群)、宝積寺台地の坂ノ上古墳群などとともに小地域の勢力集団が割拠した様子を偲ばせる。首長の権威を表わす単独の古墳から小地域の支配者一族の墳墓が連続的に造営される群集墳へと移り変わったのである。広い地域を支配した権力者を古墳に祀る祭祀行為はなくなり、ごく狭い範囲の支配者とその家族が祀られる時代になった。中央では、豪族たちの古墳への埋葬が禁じられ(薄葬令)、地方の首長にもその傾向が強まってきた。そのため、以前には手が届かなかった古墳に小地域の支配者でも被葬が可能になったわけである。
群集墳は、おおむね直径数メートルほどの小規模な円墳が数基から二〇~三〇基ほど集まってつくられている。墳丘や石室のつくり方をみると、体裁や形式にこだわらず実用本位のやり方がみられる。盛土の量を減らすため斜面に墳丘を築いたり、石室の構築には巨石に代えて河原石を積み上げたりするいわば省力手法を用いている。被葬者への副葬品も、玉類、耳飾りなどの装身具を主体に、直刀や刀子などを形式的に納める傾向が強まる。かつての厚葬の風は廃れ、形式化した葬送儀礼へと姿を変えたのである。発掘調査が行われた台新田古墳群(後述)の場合は、これらの状況を伺い知ることができるが、古墳が原形を保つことはむしろ珍らしく、盗掘や耕作などで破壊されたり、工事で消滅したりすることも多く、地域の特性はなかなか見えにくい。
ところで、喜連川丘陵の地内では隣接の南那須町域には、群集墳の造営されたこの時代にもう一つの墓制、横穴墓群が数カ所に存在している。曲田横穴墓群はその代表的な遺跡である。
横穴墓は、凝灰岩など軟かい岩盤の露頭に掘り込んだ横穴に埋葬するもので、穴の形は古墳の石室と同様、切石積石室の石工の技術が用いられるようだ。
横穴墓は群集しており、その点では群集墳のありかたと類似している。県内の横穴墓群は那珂川中流域から市貝、南那須地域に偏在しており、古墳とは別個の葬送儀礼をもつ集団が営んだ文化として注目される。
別に、亀梨地内では箱式石棺墓が発見されている。板状の石を組み合わせて箱のような墓壙をつくり埋葬するもので、玉類や刀などを副葬する点は群集墳と似ているが、この墓壙は個人専用で古墳の横穴式石室に複数の人物を埋納する追葬の方式をとらない点が異なる。ほど近くには亀梨古墳群、台新田古墳群などのほぼ同時代の群集墳が営まれる中で、墳丘をもたない箱式石棺の墓制が存在することも、横穴墓の墓制とともに注目される。墓制は、その集団がもつ制度や慣行などの文化要素の中でも特に変わりにくいものの一つとされる。横穴墓や箱式石棺は古墳終末の段階に現れた新しい墓制である。この墓制には、石工の技術が伴っている。そこに時代を変えつつある何かが動いているように思われる。亀梨の上の台古墳は、凝灰岩の切石積石室をもつ終末期の古墳である。高度な石工の技術が小地域の権力者の元へも及んできたことを示すもので、同様の石室は南那須町・曲畑遺跡でも発見(墳丘は消失)されており、新しい技術の普及を感じさせる。
古墳の築造が終わる段階で採用された石工の技術は、ひとしきり小地域の権力者の威厳を輝やかせ、次の世紀に仏教文化の基盤をなす技術として発展していった。
14図 曲田横穴墓群(南那須町教育委員会提供)