ビューア該当ページ

一枚のスケッチ

262 ~ 263 / 899ページ

15図 上の台古墳の発掘調査 1990年10月

 高根沢町史の編さん事業が始まった平成元年(一九八九)の秋、町民俗資料館(当時)に展示されていた上の台古墳石室の一枚のスケッチに私たちは見入った。板石を直方体に組み立てた切石積の横穴式石室で、部分の様子も描かれている。一九五七年二月、開墾によって墳丘が削られ石室が露出、破壊されたがその時の状況を古口利男(町史編さん専門調査員)が描いたものだった。「この石室は、荒川の凝灰岩の切石で、畳一帖程もあり、石の厚さが約五〇センチ前後、側面は二枚重ねで積み上げられ、床面や天井石も四枚づつで仕上げられておりました」(「広報たかねざわ集約編 古口利男)。石室の破壊とともに遺物も持ち去られ、その後は、ほとんど知られずに地中に埋もれていた。町域の遺跡や既存の遺物を見直す作業の中で、この切石積み石室の再発見に私たちは感動した。古墳後期の終わりころに現れる切石積石室は、県北では数少なく構造や規模などを実証できれば、当時の様相を考えるうえに貴重な資料が得られるからであった。
 翌年五月、牧草地になっている現地で石室位置の見当をつけ、秋に試掘して遺存状況を調べることにした。一〇月下旬、試掘調査した結果、円形に廻る最大幅三・五メートルほどの周溝を確認、直径は外幅で東西三九メートル、南北三七メートルの規模であった。
 円内の中心からやや南寄りの位置にカギ穴に似た平面形に黒褐色土の広がりがあった。石室をつくるため掘り込んだ穴の跡(掘り形)で、直線状にのび出す部分はほぼ直南を向いており、この石室は南面開口の構造と分かった。この黒褐色土の広がりの一部を掘り下げて石室の遺存状況を調べる。破砕された大量の凝灰岩の石屑に埋もれて石室西側の側壁の一部が見つかった。黒褐色土や石屑は、石室と掘り形の間隙につめこんだ補強材(裏込め)である。側壁は最下段の切石で三枚が連なっており、その上縁にコの字状の抉りがみられる。この部分に上段の石をはめこむのである。上段の石の重量を分散させると共に、はめこむことで横ずれへの強度も増す切石切組といわれる構築法であった。この側壁に接続する床石は抜かれており、割れた平石が散乱している。石室の破壊は床面にまで及んでおり、副葬品の出土はのぞめないが、全体を発掘すれば平面形や規模は把握できそうなことが分り本調査への期待が高まった。
 本調査は意外に早く実現した。この土地の用地転用のため記録保存の発掘調査が必要となった。町教育委員会の委託により日本窯業史研究所が一九九二年一~三月に全面発掘を行い、墳形や石室の概容(後述)が明らかになった。
 これまで実例が乏しかった切石積みの横穴式石室の一つが、こうして歴史資料に加えられた。戦後の乱開発で、その存在すら知られず消え去った数々の古墳を思うと、破壊の末とはいえ概要が記録保存された上の台古墳はまだ幸運だったかもしれない。それが一枚のスケッチを発端としていることに、郷土愛の大切さをみる思いがする。