17図 台新田古墳群分布見取図
戦後間もない一九四七年一一月ころ、米軍による空撮写真がある。坦々と苅り跡をみせて広がる水田と雑木林に覆われた喜連川丘陵が鮮明に写っていて、開発に傷つけらていないかつての田園をそこに見ることができる。丘陵の西側、飯室字下大野の一帯で北へ抜ける古道「辰街道」の付近には、道を挟んで左手(西側)に六基の台新田古墳群、右手に六基の近世の小塚があったのだが、畑の中にその一部が白っぽい地ふくれとなって写っている。道沿いに、1、2号墳、少し離れて山林寄りに3~6号墳が位置しているが、現存するのは1~4号墳である。
一九六六年、1号墳が耕作の都合で削平されることになり、町教育委員会は緊急に発掘調査を実施した。調査主任を大和久震平(県教育委員会、当時)に依頼し、一一月に三日間の発掘を行って横穴式石室を検出した。石室は盗掘で破壊され、遺物は鉄片一点のみが出土、六~七枚あったらしい天井石のうち、奥壁にかかる一枚だけが原位置にあり、二枚が玄室に落ち込み、河原石積みの側壁は大きく崩れていた。石室の遺存状況はよくなかったが、町内はむろん周辺地域で初めて発見された後期古墳の石室は古代文化の貴重な実物資料であった。
台新田古墳1号墳は、町文化財史跡に指定され、石室は補修して保存展示されることになった。石室の右側壁(東側)は崩壊がはなはだしく大半を積み直し、左側壁(西側)も上部を補充し、奥壁や玄門の部分にも修復を施してある。石室を覆う墳丘も工事で盛土したものである。町史編さんに伴い、一九九二年に石室の再調査を行ったところ、各部分の計測値は発掘時のものと変わりなかった。現在の石室は原形を示すものではないが、この地方の群集墳における横穴式石室の構造や規模、用材と石積みの技術などをうかがい知るうえに大いに役立っている。遺構、遺物はその遺跡を離れて価値は少ない。この石室は原位置に保存されており、周囲の地形上の位置や他の古墳との配置関係もよく分かる。その点でも実物保存は意義深いといえる。
18図 台新田古墳の再調査