19図 砂部遺跡の調査風景(太田)
一九八七年二月、県企業局は地元住民の要望に応え、ここに約二六ヘクタールの工業団地の造成を決定した。県企業局は、県文化課、(財)県文化振興事業団と協議の結果、遺跡を現状のまま保存することは困難であるため、その代替として、遺物を収納し、遺構の状態を写真、図面など記録として後世に伝え残すための発掘調査が緊急に行われることとなった。
発掘調査は、担当者三名と、太田や平田、桑窪など地元の方々約三〇名で進められた。最初はぎこちなかった作業道具の扱いも、ほどなくサマになってくる。地元の人々が調査に係わることは、身近にある先人の暮らしを知り、郷土の歴史に対する認識を深めてもらうという効果もあった。
一九八七年から翌年にかけてまる一年を要した調査によって、この遺跡は古墳時代中期(五世紀)と平安時代前半期(九世紀~一〇世紀)の集落跡で、しかも、いずれの時期も県内屈指の大規模な集落跡であることがわかった。発掘で出土したものは二つの時代をあわせて、遺構数では、竪穴住居跡一三〇軒、掘立柱建物跡四九棟、土坑約五〇基のほか、井戸跡、溝跡、出土遺物としては、形を復元できる土器約一,〇〇〇点、そして、石製品、鉄製品それぞれ一〇〇点あまりにものぼる。それらは、一九九〇年報告書として刊行された(菊井和美ほか 一九九〇)。
20図 砂部遺跡の遺構分布図