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住居と土器

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21図 竪穴住居跡

 一般に人々が生活を営むうえでは、居住の場、生産の場(水田や鍛冶工房)、マツリの場、墓、道などさまざまな目的をもった場がある。集落跡とは本来ならば、それらの痕跡の総体としてとらえるべきものであるが、実際に発掘調査で明確な形で把握できるのは、住居跡の集まりで、これを狭義に集落跡とする場合が多い。砂部遺跡も古墳時代の遺構は、住居跡五二軒、土坑数基、溝跡一条が判明しているのみである。つまり考古学的にアプローチできる方法は極めて限定されることを、まず念頭におかねばならない。
 集落の最小単位、それは住居である。当時の住居は、地面を掘りくぼめて床とする。竪穴住居と呼ばれるもので、縄文時代以来の住まいの基本型である。時代によって平面形や柱の配置に違いがあるが、古墳時代では他の時代に比べ、形が画一化され、均整のとれた正方形に近いものとなる。砂部ムラでは、大きさは一辺が三メートル前後から一〇メートル台で、五~六メートルが多い。柱穴は竪穴住居の対角線上におのおの二個ずつ配され、規格的な四本柱を主体とする。煮炊きの場は、地面を浅く掘りくぼめた炉で、中央よりやや北に寄った位置にある。物を貯える穴も各住居ごとに見られ、南の隅に作られる。
 砂部ムラに人々が住みはじめたのは、古墳時代前期で、五軒の家が見つかっている。遺跡範囲のうちでは、最も南の一角、家々は至近距離にあり、最小単位の集団が生活を始めたと考えてよい。本県では、弥生時代にくらべ古墳時代は遺跡は多くなる。日常容器は、これまでの、全面に文様のついた弥生土器に対し、文様を失い、日本列島全域でほぼ同じ形をなす、土師器とよばれる土器が使われるようになった。無文の土師器に時おり混じって存在する弥生時代の名残りの土器は、近畿や東海、群馬方面の特徴を保持し、当時の文化の流れあるいは交流を物語っている。
 古墳時代前期の集落には上柏崎の川端遺跡がある。発掘調査での出土ではないが、甕、壷、高杯等が住居跡らしきところから見つかっている。遺跡がある平坦面はさほど広くないことから、大規模な集落ではなさそうだ。砂部、川端両遺跡とも、小規模な集団が分散して集落を営んでいたと想定される。この時期はすでに農耕社会として米を作っており、井沼川東の低地には水田がひろがっていたのであろう。