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カマドの出現

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 食生活で中心的な役割を果たしたのは煮炊きの場所である。縄文時代以来、住居に作られたのは炉で、発掘時には竪穴住居の中心や中軸線上に、床が火を受け赤変したり、くぼみに焼土がつまった状態で見いだされる。縄文時代には、石で囲ったり、土器を埋め込んだり、手のこんだものもあるが、砂部の古墳時代の住居では、単純に床を掘りくぼめただけのものが多い。その中に炉の主軸に直交するように、川原石を一個置いたものが数例あった。土器を置く時、倒れないようにする支えであろう。炉のある住居は全体の三割程度で、残りは明確な調理施設を持たない。煮たき用の土器を多く持ちながら、である。
 関東地方では、実はこの砂部ムラの新しい時期(B群)の直後に食生活の上で大きな変化がおこる。カマドの出現である。住居の北ないし東の壁に粘土などを用い、ドーム形の施設を作り付けるもので、前面と上の部分にそれぞれ穴があけられている。前面から薪をくべ、上の穴には甑をのせた甕が掛けられる。甕は支柱の上に乗せ位置を高くしている。煙を出すため住居の外へはゆるやかな上り傾斜がつけられる。
 カマドは、須恵器窯の導入と密接に係わって登場したものであろう。その構造を取り入れたので炉と違い、燃焼箇所の周りを構築材で覆い、甕を地面から浮かすことによって熱効率は大幅に良くなった。そこに大形の甑が土器の組成に加わったことによって、煮たきの仕方が、「煮る」から「蒸す」に変わっていく。しかし、砂部ムラでもみられることだが、カマドの出現と大形甑の登場は一致せず、カマドのほうが少し遅れるという傾向がある。しかも砂部ムラでは、大形甑が認められるもにかかわらず、炉のない家が全体の七割というのはどういう事情なのか。付設率が低いのは、炉からカマドへの移行を考えるうえで何らかの意味があるような気がしてならない。