25図 台新田古墳群の現況
26図 石室の検出状況(奥壁ふきん)
町域の東側を限ってのびる高台=喜連川丘陵は農地としてひらけ、集落や各施設などがつくられている有益な地域だが、古代遺跡が各所にみられる〝宝の山〟でもある。この丘陵の西縁を通る「辰街道」は近世以前に由来するともされる歴史の道だが、この道沿いで飯室地内に台新田古墳群がある。高台の縁辺近くに位置するこの地からは、西方に田園地帯の五行川低地を見下し、彼方に日光連山も眺望できる。辰街道の左手(西側)に六基の円墳があり、台新田古墳群と呼ばれてきたが、近年、二基は破壊されてなくなり1~4号墳の四基が現存している。
この四基のうち、1・2号墳は道傍の平坦面に、3・4号墳は少し西はずれの緩斜面に位置している。消失した5・6号墳も緩斜面にあったようだ。緩斜面は南向きで、3・4号墳は、その高みにつくられているが、墳丘が低く、低い側からは円墳らしい地ふくれが分かるもののはっきりした大きさはつかめない。墳丘の盛土が時を経て崩れ、高さを減じたためだが、本来の築き固めが弱く、斜面を墳丘の上半部に利用して造成した「山寄せ」型の構築方法が原因している。県北の群集墳にみられる石室本位、墳丘は二の次とする築成の仕方と共通するようである。
1号墳は一九六六年に町教育委員会が発掘調査を実施(調査担当・大和久震平)した。町域では最初の古墳発掘であり、発見された石室は古墳時代の貴重な資料として保存され、同年に町史跡「台新田古墳」に指定された。発掘時の状況は、盗掘で石室は破壊され遺物は直刀の残片らしい鉄片一点のみだった。石室の側壁は両側とも石が崩れ、遺存した四枚の天井石のうち二枚は中へ落ち込んでいた。奥壁は凝灰岩の切石を三段に積んであったが、中段まで崩れていた。玄室の入口をふさぐ閉塞石はそのままだった。盗掘は、墳丘を真下に掘り下げ石室の天井石を破壊し、玄室内に側壁の積石が崩れ込んだのを取り除いて行われ、ほとんどの遺物を持ち去っている。石室の長軸はほぼ北を向いており、側壁は河原石を積んで構築されているが、盗掘は東側の側壁を崩して行われたため、積石は失われ天井石が東側に傾いて落ち込んでいた。天井石は、遺存した四枚を含め六~七枚あったらしい。
側壁の高さは約一六〇センチ、両側とも上部の石が抜かれているので正確な寸法は分からない。修復は、東側壁の大部分と西側壁の上半部の石を積み直し、失われた天井石をコンクリ板で補った。奥壁の破砕箇所には河原石を詰めて補強、閉塞石もコンクリを間詰めして固定してある。この石室を盛土で覆って墳丘をつくり、現在、フェンス囲いで展示されている。一九九二年、町史編さんに伴い石室の清掃と再実測を行い現況を確認した。併せて南隣する2号墳、西方の隣接する3・4号墳の墳丘測量を行い台新田古墳群の概要を把握することができた。1号墳は、道路傍にあるため立ち寄って石室を見る人も少なからずあり、実物展示の大切さを改めて痛感させられたが、史実が誤って認識されないように遺存部分と修復部分を明示する工夫も必要なことであろう。
27図 台新田古墳群1号墳の石室 アミかけの部分は補修の石積み