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河原石の石室

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28図 石室内部(現況)

 1号墳の石室は、南面開口の横穴式石室で、前面に墓道である溝が約二・八メートル確認されている。墳丘を囲む周溝に連結して墓前域を形成するものとみられる。石室は玄室と羨道からなり全長四一二センチ。その仕切りとなる玄門は、両側に高さ約一メートルの凝灰岩切石を立て(柱石)、間に幅六六センチ・厚さ二九センチの切石を据え(框石)てつくられている。天井部分は失われている。
 玄室は、縦長の河原石を薪を積むように積み上げた小口積みで、床面から上へ行くにつれて壁面がアーチ状に少し内傾する。床面積を広く、天井部を狭くとる工法で、室内空間を広くするもの。天井石の重量は分散して順々に下位の石へ伝えられる。〝持ち送り〟の伝統技法がとられている。玄室の全長は三四一センチ、遺存のよい奥壁が天井幅約九〇センチ・床幅約一一五センチ・高さ約一六三センチ。室内は少し屈んで歩けるほどの高さである。玄室の床面には河原石が敷きつめられており、平面形は少し胴部が広がった(最大幅が約一四二センチ)長方形を呈する。あれもこれも限られた空間で床面積を広くとる工夫である。
 羨道は、長さ七一センチ、幅は玄門直前で約九一センチ、前端で約九八センチで、前端部に閉塞石が積まれている。
 このタイプの石室は、県北地域の群集墳にみられる典型的な横穴式石室で、特徴を括って「河原石小口積胴張り型石室」と呼ぶ。
 七世紀代に盛行する石室である。台新田1号墳の場合は、用材に凝灰岩切石を組み合わせているのが注意される。奥壁には大きな一枚岩を用いるので鏡石などと呼ばれるが、これに代えて凝灰岩切石を三段に積んでいる。この凝灰岩は南那須町地内の荒川沿岸に露頭をもつもので入手しやすく、軟かいので加工に便利である。反面、水を含むと非常にもろくなり、そのためか奥壁中段の切石は発掘時にすでに割れていた。それでも、一帯の古墳には用材として活用され、上の台古墳や亀梨箱式石棺(後述)にも切石として使われている。
 石室の側壁に河原石を積むのは、下野国では六世紀後半に首長クラスの古墳に出現し、七世紀には小地域の支配者の石室として一般化する、とされる。従前の石室に使われた大きな石は入手しにくい、運搬に不便などの難点があり、労力も手間も大きかった。その点で河原石は築造上の新素材だった。手近かにたくさん入手でき、運搬も楽、加工の手間も要らない。〝持ち送り〟の壁面は裏込めの礫、砂利が支え、天井石がのると石室全体の荷重のバランスがとれて安定するしくみである。いわば実用本位のこの構築法は、帰化人が新たにもたらしたのではないか、とする説もある。こうして古墳づくりは一般化された。広く群集墳を出現させた要因に、技術面では河原石積みの石室工法が大きな比重を占めている。