台新田1号墳の石室には墓道が施設されており、羨道は河原石を積んで閉塞されていた。と前述した。それは、この古墳の主が葬られた後に、その身内の人たち(妻たちなど)を追葬するためである。したがって玄室内には男性用、女性用の副葬品が複数セット置かれることになる。これらの遺物の出土位置により儀礼のありかたを推定したり、遺物を検討して時期を把握し、その内容からどんな階層に属するものだったのかも判断できる。遺物は、どの遺構からどんな状態で出土したかが明確にされてはじめて歴史的な価値をもつのである。
その状態が、写真や図面、観察の記述により客観的な記録となった時に、歴史資料として普遍化されるのである。
本墳の石室は、前述のように盗掘され、遺物はほとんど持ち去られていた。古墳のもつ歴史的な情報は核心の部分で失われていたのである。遺物にあまり骨董価値があるとも思えないが、石室を離れればただの記念物になってしまう。それも保存されていればのことで、防腐処置をしなければ金属品などはたちまちボロボロに砕けてしまうであろう。
遺跡を離れて遺物の価値はない。特に、遺構との相関を抜きにして遺物の価値はない。「現場百回」ということばを思い出す。発掘現場もまた限りない情報を秘めている。それをどれだけ引き出せるかが発掘調査の真骨頂である。その意味で、盗掘で失われた歴史遺産は大きい。