29図 丘陵の群集墳・矢板市権頭古墳群
高根沢町、南那須町から芳賀町へかけての喜連川丘陵は起伏に富む高台が続き、南へ流れる谷に刻まれた細長い谷底平野が至るところにみられる。この谷底平野に寄りつくように一〇基内外の円墳で構成される群集墳が点在している。それぞれの群集墳をつくった集団のテリトリー(なわ張り)を反映したものとみられ、小地域を支配した権力者が分立した七世紀代の地域社会を感じさせる。
群集墳は支配者一族の墓地である。聖域と定めた地に数一〇年にわたり連続的に円墳が造営され、祖先霊を祀る儀礼が行われる。円墳の内部主体は横穴式石室で、被葬者は当主とその家族。追葬を繰り返す家族墓である。
この時代、東国では爆発的に小円墳が造営され、群集墳が出現した。それは古墳を権威の象徴として尊ぶ社会が存続していたからであった。
古墳時代中期以降、古墳は在地の一大権力者が中央政府の指揮下に支配を行い、その実力を誇示する大規模な前方後円墳を造営した。古墳は下位の支配者たちに手の届く代物ではなかった。七世紀代、国家としての諸制度がしだいに整い、支配層に仏教が定着していく。地方の大小の支配者たちも地方官人として制度の中に組み込まれていく。中央では古墳造営は急速に衰え、高級身分の特殊な墳墓を除き過去の存在となりつつあった。その古墳終末の時代に東国では群集墳が大盛行したことになる。小地域の支配者にとって、古墳に手が届く時代がきたともいえる。
「山寄せ」型の墳丘、河原石積み石室、形式化した副葬品、それらは実用本位の古墳づくりと葬送儀礼の踏襲であり、下位の支配層にとって〝手が届く〟慣習であった。
群集墳の盛行は小地域の支配者の憧れを具体化しただけの現象だったのだろうか。東国の社会は、まだ古墳造営を通じての祖先霊を祀る儀礼が存続し、古墳を支配者の権威として認める通念が存在していたのであろう。恐らく小地域を支配する体制の中で、古墳の儀礼は小首長の権威を裏づけ保持していく役割を果たしたものと思われる。それは土地と農民を支配する上で不可欠の儀礼であったに違いない。