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初葬と追葬

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 近隣の群集墳の発掘調査から、家族墓のありかたをみよう。南那須町南大和久にある大和久古墳群は、かつて三〇基以上の古墳が荒川左岸の丘陵地に群集しており、三カ所ほどの支群に分かれている。
 その中の寺田支群七基のうち二号墳は、直径一二・七メートル、高さ一・七メートルの円墳で墳丘全面に葺石があり、南面開口の横穴式石室をもっていた。石室は全長四・五メートルで、玄室の長さは約三メートル。河原石積みの側壁下部に切石が設置されており、このありかたから七世紀前半の造営とみられている。玄室の奥壁にそって三つの頭骨が並べてあった、と報告されており、追葬が行われたことを示している。出土遺物は、直刀一点と共に耳環五点、勾玉一三点、管玉一点、水晶の切子玉一点、丸玉三点。ガラスの小玉一点、それに須恵器の皿一点などであった。直刀は初葬時に、耳環や玉類は追葬時に供献されたものとみられる。家父長とその妻たちを葬った家族墓であろう。耳環は、図の1と2、4と5が対をなすとみられ、銅線に金箔を貼った銅芯金張製。3は対になる耳環が失われているが、この五点の耳環が三人分の女性のものとすれば玄室内の三体分の頭骨に含致する。その場合、初葬時の直刀を供献した男性遺体がみられないことになるが…。玄室内へ追葬が行われた際、床面の整理により遺体や副葬品が移動することが多いので玉類などはセットが分かりにくい。匂玉の材質はメノウ、碧玉、滑石などでいずれも片面穿孔、拙速の量産を思わせる。なかでも11と12は土製。供献のためにつくられた代用品である。いわばありきたりで形式的な副葬品ばかりで、かつての権威と富裕にみちた供献ぶりはみられない。被葬者の経済力の実態を反映するものだが、古墳祭式にこめた尊崇の念が衰えて定形化、形式化した感が深い。

30図 寺田支群2号墳他の出土遺物(「大和久古墳群」南那須町教育委員会)
1~5.耳環 6~12.勾玉 13.管玉 14.切子玉 15.棗玉 16~19.丸玉 20.ガラス小玉