34図 上の台古墳出土の耳環
35図 上の台古墳・試掘調査
36図 上の台古墳・切組面の状況
青々と牧草が広がる畑、そこに古墳があったとは誰も気づかないだろう。一九五七年三月に破壊されてから三〇余年、上の台古墳は人々の記憶から消え去ろうとしていた。古口利男が描き留めた一枚のスケッチ(前述)と、ただ一点のみ保管されていた金銅製の耳環とが、それを呼び覚ませてくれた。その石室が、群集墳にみられる河原石積みの横穴式石室ではなく、整形した切石で構築した技巧的な切石積石室であることに私たちは感動した。聞けば、出土品は持ち去られ、石室は埋め戻しの際に壊されたとのこと。それでも発掘調査してみれば規模や構造などのデータが得られるかもしれないし、もしかすると〈方墳だった……〉ということがあるかも。
一九九〇年一〇月、地権者の許可を頂いて石室の遺存状況を調べる試掘を行った。まず赤土まで掘り込まれた円形に廻る周溝が確認された。外縁の直径が約四〇メートル、大型の円墳だった。周溝で囲まれた区域の中央に、楕円状の掘り形(掘り込んだ穴の形)があり、それから縦長の溝が南へのび出している。キノコ雲を思わせる平面形である。この古墳の内部主体だ。楕円部分は石室位置、縦長溝は羨道で半地下式の横穴式石室で南面開口と判明した。羨道部分の掘り形が左右不均整なのが気になった。
楕円部分に試掘溝を設けて石室の遺存状況を調べる。西側の壁下部と床面の一部が現れた。壁は最下部だけが残り、床石も部分的に残っているだけ、原形が分からないほどの壊滅状態だった。石材は軟質の凝灰岩で荒川流域の露頭にみられるもの、水分を含んで特に軟かくなっており竹ベラでも傷がつくほど。切石加工の石屑を土に混ぜ込んで、壁の裏込め(補強材)にして突き固めている。
側壁は厚さ二五センチほど、ノミ跡も生々しく面取りされ、下段の三枚は中央と両側の上面にコの字状の抉りがあった。この部分に上段の積石をはめ込んで強度を保ち重量を分散する工夫で、切石切組という技法である。床面の敷石にも角にダンラク状の切込みがあり、切石を組み込む構造になっていた。上の台古墳の石室は高度な切石切組の石工技術で構築されていたのだった。
こうして上の台古墳は再発見された。構造や規模が判明し、県北ではあまり確認例がない切石積石室の貴重な資料が得られたのである。