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意識的な立地

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 試掘の際、表土から縄文中・後期の土器片が出土した。縄文遺跡の一部を壊して古墳はつくられた。遺跡は北側の地域へも及んでいたようだ。一九四七年一一月ころ米軍が撮影した飯室一帯の航空写真には、辰街道とその東側に手つかずの山林が写っており、その一角に上の台古墳の地ふくれががみえる。
 喜連川丘陵は、幾筋かの谷に侵食され、その上流部分には細長い枝状の支谷がのびている。谷筋には帯状の谷底平野が発達しているが、これらの平野部に寄り集まるように古墳が点在(史料編Ⅰ・参照)している。古代の水田域として耕作されていたのであろう。
 上の台古墳も、大川の支谷の最奥部に位置している。足元に細長い低地を見下す地点で比高は四・五メートルほど、谷への傾斜がはじまる地形面の変換点の位置である。高台の平坦面で眺望を重視するなら丘陵の西側地域の方がはるかに勝っているのに、支谷の奥頭を選んで築造したのはこの細長い低地をよほど強く意識した結果かと思われる。前述の空撮写真にもあたりには古墳らしきものはなく、上の台古墳が一基だけ築造されていたものとみてよい。このような立地の状況から、上の台古墳に祀られた人物は、足元の支谷から下流域へかけての谷底平野を支配する小地域の首長であり、それ故に当時の先進的な技術による切石積み石室をもつ大型墳が築造されたものと推測されるのである。

37図 上の台古墳付近の地形