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石工技術の普及

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 用材の凝灰岩は、南那須町の荒川沿岸で田野倉から大金の一帯に露頭があり、手近かで採掘しやすく、軟質で加工しやすいためか上の台古墳の近隣の古墳でも使用されている。台新田古墳1号墳、亀梨箱式石棺、また既に失われた東雲CC地内の古墳やカリマタ窪古墳などでも用いられていたようだし、南那須町・曲畑遺跡で発見された1号墳、2号墳でも切石積横穴式石室にこの凝灰岩を使用していた。
 上の台古墳のつくられた時期を副葬品から知ることはできないが、鉄製工具の普及と石工の技術が仏教の波及に関連することからみて七世紀代、それもこの地の古墳文化の終末段階にかかる時期ではないかと考える。すでに小地域を支配する首長たちが、それぞれの奥津城を定め群集墳が出現していたこの時代に、新技術による切石積石室を造営できた首長はより富裕で大きな権力を備えた人物だったのかもしれない。古代の家族集団は、一族の家父長が親族全体をまとめ支配することで成り立っていた。上の台古墳は単独墳であった可能性が強いが、その場合、被葬者は一族にとって格別の権威をもち、敬慕されたことの反映として聖域の最高の場所に祭祀されたことも考えられる。
 近隣の曲畑遺跡1・2号墳の切石積石室も同時代のものとみると、石工の新技術は地域の首長層にも手が届くほど普及していたことを示すともいえる。それは、律令制の地方支配に組みこまれる直前の時代、しばしの間、在地権力が輝きを放った証しだったのかもしれない。

42図 曲畑古墳群1号墳の石室(南那須町教育委員会)