46図 亀梨石棺出土の直刀
亀梨のこの箱式石棺には分からないことがいくつかある。まず、その年代。刀、鉄鏃、玉類などの副葬品は群集墳のそれと同様で、棺材の切石加工や使用石材は近くの上の台古墳切石積石室と共通しており、類推すれば七世紀後半の年代が考えられる。次に外部施設。石棺の周囲に敷石があったか、また墳丘やそれを囲む周溝があったか。状況写真には二、三個の河原石がみえるが………。墳丘は発掘時の状況からは「高塚古墳を想定することはできない。墳丘を持たない墓か、低墳丘墓と考えられる」、と橋本澄朗はいう(前出)。川原由典の聞きとり調査によると、この石棺墓を含め、周辺には計七基の箱式石棺またはそれと覚しき石組み遺構が分布している。それらは凝灰岩の切石が見つかった地点で二、三基ずつ寄り集まって点在している。現況では墳丘らしき地ふくれは認められないが、石棺複数基が円溝に囲まれてそれぞれの単位を構成する可能性も否定できない。
加えて群集墳の亀梨古墳群との関係。亀梨古墳群は、五基のうち三基が現存するが、その分布域に箱式石棺の出土地点も含まれている。3号墳は現況で直径一〇メートル、高さ一メートルほどの小円墳だが、近くに二カ所の箱式石棺想定地点(古口修三宅地)がある。小円墳と箱式石棺とが同時期のものとすれば、箱式石棺が盛土を伴っていた可能性があるし、先後関係があるとすれば墓制が異なる集団がこの地を聖域と定め、交替して使用したことが考えられる。箱式石棺は個人墓である。身長と肩幅ほどのスペースに合葬することはまずない。
家族墓地として石棺が群集しても、棺内への埋納は個人専用が基本である。これに対し、群集墳は横穴式石室における合葬が普通のありかた。主人の墓室に妻たちが次々に追葬された状況は副葬品の内容からもよく分かる。習俗の中でも最も保守的とされる葬送儀礼は、その集団がもつ文化要素では個性的、特徴的なものである。箱式石棺と群集墳とにみられる葬送儀礼の違いは、それを有する集団の違いを意味している。群集墳の葬送儀礼が一般化した古墳後期にあって、箱式石棺のそれは特異な存在であり、ある独自の集団が保持するものであった。高根沢地域の一角に箱式石棺の文化が及んでいた事実は単発的、突発的なできごとのようにみえる。群集墳の台新田古墳群、甲塚古墳群や亀梨古墳群がすぐ近くに所在することが、もし箱式石棺群が同時代に営まれたのだとすれば異種の集団が併存したという奇異な状況を示すわけだし、箱式石棺群が先行するものとすれば、それはまた目まぐるしい地域文化の移り変わりを意味することにもなる。亀梨箱式石棺を歴史的にどう解釈していくのか、まだ確認できていない部分も含めてナゾの多い遺構である。