地面に方形の穴を掘り、その中に板を組み合わせた木棺を設置して遺体を埋納する儀礼は弥生時代の方形周溝墓にみられる葬制である。箱式石棺も同様の埋納を行うもので、いわば伝統的な墓制ともいえる。関東の箱式石棺は、常総地方に偏在して六世紀後半から七世紀にかけて盛行した。栃木県内では、那珂川流域を主体に七、八カ所ほど発見されているが、古墳の頂部に箱式石棺を祀った矢板市・通岡古墳(六世紀後半)のように単独墓の場合や円形周溝の区画内に数基を祀った湯津上村・蛭田富士山古墳群のように家族墓の形態を示すものがあり、一様には括れない。
一九七〇年二月に発掘調査された蛭田富士山古墳群にみられる箱式石棺の状況(大和久震平 一九七二)をみよう。
この遺跡は、箒川右岸の低い段丘に箱式石棺と後期古墳の横穴式石室の各群集域が隣り合って発見されたもので、「五世紀後半に箱式石棺、木棺葬などの施設がつくられはじめ、やがて六世紀後半から横穴式石室が同じ墓域に継続して営まれたとみてよい」(大和久震平)とされる。箱式石棺は、内法で一一~一四メートルの円形に溝(周溝)で囲んだ区域に三、四基を設置した家族墓とみられるグループと単独に設置されるものとがあった。箱式石棺は一四基あったが、棺内の遺物は刀子が若干出土した程度で時期判断の手がかりは少なかった。円溝四基のうち二基は周溝内から鬼高式土器が出土しており六世紀中葉に形成されたものとみられる。円溝、横穴式石室とも盛土が遺存していなかったが、後世の削平で失われたらしい。円溝の場合、区画内に設置された箱式石棺が時間差をもって造られていったとすれば、盛土はないか、あっても低いものと考えられる。区画を伴わない平地の箱式石棺の場合は、もっとその可能性が強い。
この蛭田の箱式石棺群は、後で造営された横穴式石室をもつ群集墳が六世紀後半以降に位置づけられることから、遅くとも六世紀中葉の所産とみられる。しかし、箱式石棺が盛行する茨城では六世紀後半から七世紀にかけて時期的に変遷しながら存続するとされる。本県の箱式石棺が、東部の那珂川流域を中心に分布することもこれと関連するためであろう。亀梨の箱式石棺群が、その時代のどこに位置づけられ、横穴式石室をもつ集団とどんな関係にあったのか、いまの資料ではなかなか実像が見えてこない。