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群集墳の流儀

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 県東部に分布する横穴墓は、墳丘をもたない〝もう一つの古墳〟である。谷に面した急斜面に掘り込んだ横穴に埋葬を行うもので、数一〇基の穴が並んで蜂の巣のよう。横穴は岩盤を刳り貫いて横穴式石室と同様の形状に仕上げる。奥室は中腰で動ける程度のスペースがあり、床面には棺坐が浮彫りされている。副葬品は直刀、刀子、鉄鏃、玉類などで群集墳の場合と似ている。仏像や仏具が納められていることもあり、仏教普及の時代まで存続していたことを示す。時期的には、七世紀後半から八世紀前半の遺構で、群集墳の時代と重複。同じ地域に横穴墓と群集墳とが存在することもあり、葬送儀礼の面でも類似しているようだ。横穴墓は入口(玄門)を閉塞し、墓前の祭祀を行った様子が出土する土器などから伺われるが、墓室へは追葬が行われ家族墓として存続している。この点でも群集墳の横穴式石室と同様である。
 ところで、横穴墓を構築するには場所の制約がある。急斜面や崖面をなす岩盤の露頭があり、その岩盤は凝灰岩や砂岩など軟質で掘削しやすいことが基本条件。その岩盤を抉るために鉄製のノミなどの工具が要るが、ドーム状に奥室を整形していく石工の技術は仏教の石像彫刻や建築施工に関連する大陸渡来の新技術であった。古墳の終末期に現れる切石積石室をつくる石工の技術もまたそれに基づいている。横穴墓の墓制を維持した集団は、大陸渡来の新技術をもっていたか、それを使いこなせる立場にあった人々―ということになる。
 北関東の横穴墓は茨城・栃木に偏在している。茨城では主に、太平洋沿岸の北半と久慈川及び那珂川流域に集中しており、栃木では那珂川とそれに合流する荒川流域に集中している。本県内の横穴墓は、那珂川、荒川の流域から西には長岡百穴(宇都宮市)を除いて発見されていない。これは凝灰岩の露頭など地形的な制約があるとしても、茨城北部、特に那珂川流域の伝播により横穴墓が県東部につくられた事実を示している。横穴墓は、地中に掘った穴に埋納を行う特異な墓制だが、その在り方は群集墳の流儀に含まれるといってよい。墳丘をつくることを認められない人々が群集墳に模して造営したものとも考えられる。茨城北部から栃木東部に広まった横穴墓の墓制は、地域の支配者層の較差とそれにまつわる社会的な意識を反映したものであり、文化を共有する限られた集団の間に盛行した習俗だったのではないか。途絶えていく古墳文化の残照にも似て暫しの時期、偏った地域の谷間に営まれた文化事象だったのである。

48図 栃木県の横穴墓分布(海老原祐子 原図)