ところで、横穴墓を構築するには場所の制約がある。急斜面や崖面をなす岩盤の露頭があり、その岩盤は凝灰岩や砂岩など軟質で掘削しやすいことが基本条件。その岩盤を抉るために鉄製のノミなどの工具が要るが、ドーム状に奥室を整形していく石工の技術は仏教の石像彫刻や建築施工に関連する大陸渡来の新技術であった。古墳の終末期に現れる切石積石室をつくる石工の技術もまたそれに基づいている。横穴墓の墓制を維持した集団は、大陸渡来の新技術をもっていたか、それを使いこなせる立場にあった人々―ということになる。
北関東の横穴墓は茨城・栃木に偏在している。茨城では主に、太平洋沿岸の北半と久慈川及び那珂川流域に集中しており、栃木では那珂川とそれに合流する荒川流域に集中している。本県内の横穴墓は、那珂川、荒川の流域から西には長岡百穴(宇都宮市)を除いて発見されていない。これは凝灰岩の露頭など地形的な制約があるとしても、茨城北部、特に那珂川流域の伝播により横穴墓が県東部につくられた事実を示している。横穴墓は、地中に掘った穴に埋納を行う特異な墓制だが、その在り方は群集墳の流儀に含まれるといってよい。墳丘をつくることを認められない人々が群集墳に模して造営したものとも考えられる。茨城北部から栃木東部に広まった横穴墓の墓制は、地域の支配者層の較差とそれにまつわる社会的な意識を反映したものであり、文化を共有する限られた集団の間に盛行した習俗だったのではないか。途絶えていく古墳文化の残照にも似て暫しの時期、偏った地域の谷間に営まれた文化事象だったのである。
48図 栃木県の横穴墓分布(海老原祐子 原図)