二九号墓は、全長五・六メートルで、玄室の奥行が二・四メートル、手前に約三メートルの羨道がつく。この羨道の入口寄り部分から七点の須恵器(橋本澄朗 一九九三)が出土した。平瓶や長頸瓶、大型壺などで奈良時代前半ころに比定される、という。墓前の祭祀を行った際の遺物であろう。
一九八〇~一年に発掘調査された市貝町・長峰横穴墓群(久保哲三 一九八三)の四号墓は、全長五・八メートルで玄室の奥行が約二メートル、高さ一・一メートル、玄門は〇・六メートルのくびれを呈し、前面に約三・二メートルの羨道が前広がりにつくられている。玄室内に遺物はなかったが、羨道の入口寄り位置で遺物が散布していた。遺物は須恵器の坏や蓋、小型の直刀、鉄鏃などの破片で、床面を覆った土の中から出土した。坏は八世紀中葉、蓋は八世紀末のもので、直刀や鉄鏃はそれらより古い七世紀代(古墳後期)のものとみられる。この状況から、直刀や鉄鏃は玄室内に追葬を行った際、内部を清掃して掻き出され、その後、奈良時代の後半ごろまで墓前の祭祀が行われていた様子が伺われる。玄室内に全く遺物が存在しなかったのは、盗掘にあったのか他の事情によるものかは分からないが、他の横穴墓でも同様の状態であった。
横穴墓は急斜面の高みにつくる〝立体墓地〟である。人が近づきにくい位置に岩盤を刳り抜く工事を繰り返して構築した集団墓地である。横穴墓の入口は石を積んで閉塞し、家族墓としての追葬が行われる。羨道から出土する供献用の須恵器は、古墳時代が終わり奈良時代に入っても数十年ほどの間、その集団が墓前祭を営んだことを示している。祖先霊を祀る儀礼が仏教色を帯びない伝統的な流儀で行われたことが想像される。県東部に偏在し、横穴墓の葬送儀礼をもった集団はその地域の中でどんな役割を果たしていたのであろうか。
49図 横穴墓の開口部・芝下横穴墓群(南那須町教育委員会)
50図 長峰横穴群4号墓実測図(市貝町)
参考・引用文献
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菊井和美ほか 一九九〇『砂部遺跡』栃木県教育委員会・(財)栃木県文化振興事業団
久保哲三ほか 一九八三 長峰横穴群調査報告(峰考古第4号)宇都宮大学考古学研究会高橋静司 一九九四 高根沢町の遺跡(遺跡群詳細分布調査報告書)高根沢町教育委員会中山哲也 一九九三 上の台古墳(栃木県高根沢町)日本窯業史研究所編 高根沢町教育委員会
橋本博文 一九八九 栃木県塩谷郡氏家町四斗蒔遺跡(日本考古学年報42)日本考古学協会
橋本澄朗 一九八六『ほりだされた下野の古代』栃木県立博物館
橋本澄朗 一九九一 亀梨地区箱式石棺の調査(高根沢町史編さん発掘調査報告書Ⅰ)高根沢町史編さん委員会
真保昌弘 一九九七 那須における近年の前期古墳の調査から(なす風土記の丘企画展図録「前方後方墳の世界Ⅲ」)
屋代方子 一九七八 番匠峰古墳群(発掘調査報告書)矢板市教育委員会
安永真一 一九九二 栃木県塩谷郡氏家町四斗蒔遺跡について(栃木県埋蔵文化財センター・研究紀要第1号)(財)栃木県文化振興事業団
大和久震平 一九六七 台新田古墳緊急発掘調査報告書(高根沢町埋蔵文化財第1冊)高根沢町教育委員会
大和久震平 一九七二 蛭田富士山古墳群(栃木県埋蔵文化財報告書第6集)栃木県教育委員会
渋川市教育委員会 一九九三 中筋遺跡パンフレット「火砕流からよみがえった古墳時代のムラ」
栃木県立しもつけ風土記の丘資料館 一九八七 常設展示解説「古代下野国の歴史」