六世紀の末、推古天皇の摂政となった聖徳太子は、中国や朝鮮の進んだ政治制度をとりいれて、推古一一年(六〇三)に冠位十二階の制を定め、翌年の推古一二年(六〇四)には一七条の憲法を制定し、当時の最高の権力を持っていた豪族の蘇我氏とともに、政治体制の確立につとめた。また、推古一五年(六〇七)には、小野妹子の他に、多くの僧侶・学生を中国(隋)の新しい制度や文化を学ばせるために、遣隋使として派遣するとともに、天皇記や国記などの編さんを行った。特に六世紀中ごろに朝鮮より伝えられた仏教を奨励し、法隆寺・四天王寺などを建立した。しかし、推古三〇年(六二二)聖徳太子が没すると、蘇我氏は朝廷の実権を握り、天皇を脅かすほどの権力を手に入れた。このため、中大兄皇子・中臣鎌足らは反蘇我氏の勢力を結集し六四五年に蘇我氏を打倒した。大化の改新である。蘇我氏を打倒した中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我氏がたてた皇極天皇を退位させ、孝徳天皇をたて、中大兄皇子はその皇太子(後の天智天皇)となり権力をにぎった。それと同時に、中国にならい、はじめて年号を定めて大化元年とし、改新の詔を出した。年号を定める天皇が、日本全土の唯一で最高の支配者であることを示したのである。
改新の詔は、次の三つを大きな柱としていた。
一、皇族や中央地方の貴族・豪族のすべての領地・部民を廃止し、すべての土地と人民は天皇の公地・公民とする。二、公地・公民の支配は、中央集権の行政機構を設け、全国に京とその周辺地域内・国・郡・里(地方)の行政区画を定める。三、租・庸・調・雑徭等の税制と班田収授の法、戸籍・計帳をつくる、の三つである。